志摩観光ホテル①-地域のお宝さがし-43

所在地:〒517-2502 志摩市阿児町神明731

■志摩観光ホテル■
 平成28年(2016)、志摩市賢島で第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)が、志摩観光ホテルで開催されたのは記憶に新しいことです。当地が選定された理由の一つである、出入制限が容易なことから、賢島が島であることが再認識されます(図1)。

図1

図1賢島の位置

 会場の志摩観光ホテルは、建築家村野藤吾の設計で昭和26年(1951)に建築、同44年に増築された、建築史的にも価値のあるホテルで、平成20年に開館した新館(BAYSUITE・ベイスイート)に対してCLASSIC(クラシック)と称されています(図2)。

図2

図2クラシック(増築部、現状)

このクラシックの建設経緯などをみてみましょう。

■建設の経緯■
●社会背景●
 三重県の伊勢志摩地方が国立公園に指定された昭和23年11月当時、この地域には主要な宿泊施設などがありませんでした(注1)。ところが、同地で生産される良質な真珠が世界に認められ(注2)、進駐軍将兵やその家族達など多くの人々が訪れるようになり、国際的な観光と真珠貿易振興のためのホテルの建設などが緊急の課題となりました。昭和23年の中頃、伊勢志摩国立公園の中央部に位置する英虞湾の賢島にホテルの建設が議決されますが(注3)、建設にあたり、新材消費の節約という政策に沿うことで認可を得やすくするため、鈴鹿市の元海軍航空隊将校クラブの払い下げを受け、建設費の節減も図られました。

注1)竹内孝「志摩観光ホテルの企画と設備」(『建築と社会』昭和26年7月号)。以下、ホテル関連の記述や断りのない引用は、同文による。なお、同地が国立公園に指定されたのは昭和21年11月20日である。
 2)Wikipediaによると、昭和2年、フランスの裁判所から天然真珠と変わらない鑑定結果を受け、世界に認められる宝石となったとある。
 3)出資の決定は、平井直樹他『村野藤吾による「海軍将校クラブ」の建設・移築経緯』(平成23年度日本建築学会近畿支部研究発表会)よると、昭和24年6月24日である。

●海軍航空隊将校クラブ●
 この建物を設計した村野籐吾によると、「海軍の将校会議所として」建てられたもので、海軍の主任建築家の「御手伝をした」(注4)といわれますが、「原設計が村野藤吾氏の手に成ったものである事がわかったので、移築に当たっても一応これは原設計者の手へ返すのが礼儀と考え、同氏の参画を求めて計画を進める事とした」との証言から、村野が実質的な設計者であることが窺われます(注5)。
 戦時中、鈴鹿市には海軍の多くの施設が設けられていましたが、「海軍航空隊将校クラブ」、「将校会議所」と呼称された施設は、鈴鹿市平田(当時)に設けられた「鈴鹿海軍工廠第一会議所」(以下、第一会議所)で、同町には83棟の官舎が建設されていました。第一会議所の建設にあたり、寄付を受けた松の大材(25本)が、玄関、食堂、会議室などに用いられたといいます(注6)。
 戦後、移築された以外の第一会議所の施設は、「工廠の転用工場街へ来訪する者の宿泊施設」に転用され、その後、平田郵便局→通信講習所→電話交換局となっています(注7)。

注4)前掲1)『建築と社会』所収、「設計について村野藤吾(談)」(以下、村野談)。
 5)前掲1)竹内孝「志摩観光ホテルの企画と設備」
 6)前掲3)『村野藤吾による「海軍将校クラブ」の建設・移築経緯』
 7)「5.戦後の旧軍施設」

●移築前の状況●
 払下げを受けた第一会議所は、平地の松林の中に建つ木造2階建て、日本瓦葺き(4寸勾配)で、「倶楽部々分一棟と宿泊部分二棟」で構成されていました。倶楽部部分(公室部分)(注8)は柱・梁・母屋・合掌などは松丸太の長大材で組み重ねられ、釿はつりの表面をステインで仕上げられた、妙趣あふれる、重厚な民家風の意匠でした(図3~4)。宿泊部分は、踏み込みと次の間付きの8畳間を単位とするアパート風の間取りであったようです。

注8)村野は移築した部分を「公室部分」としている(村野談)。

図3食堂

図3食堂

図4 1階ホール吹抜け天井

図4ホール吹抜け

●部材の運搬●
 解体された部材の運搬にあたり、賢島の海岸には適当な材料の貯積場がなく、三重交通(現近鉄)志摩線の沿線にも貨車取りに適した平坦地がない。さらに、ホテルの建設地が丘陵の頂部で、材料置場の確保が困難という悪条件が重なりましたが、僅かな空地から空地へと反復する方法で運搬されたといいいます。

■移築・再生■
●公室部分●
 移築されたのは、「木造の公室部分」(村野談)で、具体的には、「一階は玄関、広間、大食堂、宴会場、談話室、茶室、和風広間等二階は和風客室」です。ただし、戦後放置されていたため、傷んだ構造部分は取り替えられ、日照と地形の関係から平面が少し曲げられ、2階の和室の用途を変更し、一部に張り出しを設けるなどの手が加えられていますが、公室部分はもとの意匠や仕上げが生かされました(図5)。
 室内では、食堂の意匠を中心とし、「この表現を生かすことがこのホテル設計の動機になった」(村野談)と、その思いが語られています(図6~7)。

●宿泊部分●
 一方、宿泊部分は、天井高が低く、木材の狂いも大きいため、「到底国際的な観光ホテルには充当出来そうにもない」と判断され、賢島駅前に従業員宿舎として移築改造されることになりました。そのため、宿泊部分は、各室に浴室を設ける必要性から、「鉄筋コンクリート二階建てに計画を変更し」、新築されています。

図5 1階平面図

図51階平面図

図6元食堂(現状)

図6 食堂

図7ホール吹抜け(現状)

図7 ホール吹抜け(現状)

●外観●
 第一会議所の屋根勾配は4寸でしたが、当地の風雨を考慮して4.5寸に変更されました。外観の意匠では、食堂の大きな屋根に重点がおかれ、少し急な坂の近道を徒歩での来客は見上げられること、車での来客は緩い坂道からほぼ水平に遠望できることを考慮し、自動車用の玄関の上部に徒歩による来客の玄関を儲け、ホテルと周辺の景観を楽しめる配慮がなされています(図8~11)。

図8南面外観

図8 南側立面

図9南側外観(現状)

図9南側立面(現状)

図10北面外観

図10北側立面

図11北面外観(現状)

図11北側立面(現状)

■閑話休題■
 解体された部材は、必要なものが選択され、不要なものは用途を変えて用いることで、ホテルの完成と同時に、材料置場からすべての古材が姿を消したという逸話から、周囲の環境を熟知したうえで、綿密な運搬・移築・新築計画が行われたことが窺われます。
*掲載写真のうち、図3~5,8・10は『建築と社会』昭和26年7月号より転載。

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