ヨーロッパの近代建築⑩近代様式の発展-地域のお宝さがし-131
■ユーゲント・シュティールその後■
ダルムシュタットの「芸術家コロニー」(以下、コロニー)の建設で、「ユーゲント・シュティール」からの脱却を目指したオルブリッヒは、「ヘッセン大公結婚記念塔」(1907[明治40]年)で自己の作風を確立しますが(注1)、1908年、40歳で早逝します。一方、「ミュンヘン分離派」から「コロニー」に参加したペーター・ベーレンスは、「自邸」(1901年)によって、「アール・ヌーボーの柔らかな曲線を硬化させている」と、「ユーゲント・シュティール」から次の段階への移行を窺わせる評価をうけますが、デュッセルドルフ工芸学校長に就任のため、1903年にダルムシュタットを去ります(注2)。
注1)『新訂建築学大系6近代建築史』(彰国社、1970年)。以下の記述で 断らない場合は、同書による。
注2)田所辰之助「デュッセルドルフ工芸学校におけるペーター・ベーレン スの教育活動について」(『日本建築学会計画系論文集第479号』 1996年1月)。
■ベーレンスの活動■
工芸学校長を1907年7月に退職したベーレンスは、ベルリンで事務所を開設し(注3)、10月にベルリンの電機メーカーAEGの芸術顧問に就任します。それまでの建築家は、産業革命以後も、前近代の封建貴族の庇護により教会や大邸宅などの仕事を続け、産業革命以後に必要とされた橋梁や停車場・工場などの設計は主に技師(エンジニア)が行っていました。
●AEGタービン工場●
ベーレンスは、「AEGタービン工場」(ベルリン、1909年)の設計によって、近代建築家への脱皮をはかったといえます。筆者が、「タービン工場」を見たのは、工高の教科書、次いで大学のテキストです(図1、注4)。教科書とテキストの写真とキャプションは同じもので、「工場建築にはじめて美をもたらした記念すべき建築」とありますが、筆者には、「重苦しい建築」という印象しかわかず、それより、手前の樹木や工場の右下隅に見える人物から、その大きさの方が気になりました。
実物は、腰折れ屋根の妻面に囲まれたガラス壁面で構成された正面、重厚な基礎部と両側の壁面(図2)、ピン構造の基礎(図3)に建つ鉄骨柱とガラス壁面で構成された側面、そのガラス面からは筋かいが見える、稼働中の工場でした(図4)。周囲の樹木の大きさのためか、大規模な感じを受けませんでした。表示板には、建設年(1909年)、ベーレンスの姓名と生没年などが記されています(図5)。
建設からほぼ100年(注5)、未だに現役なのか!と、思わず基礎を撫でました。筆者が感じた「重苦しい」印象は、ベーレンスの、「古典主義的形態」の作風によるもので、それが、「記念的意味を一層つよめている」と解釈され、「すべての工場建築の中でもっとも美しいもの」と評価されています(前掲注1)。さらに、高い造形的な水準から、「最初の近代建築」と称されました(前掲注4)。
注3)ウィキペディア「ペーター・ベーレンス」。この事務所には、一時 期、ワルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コ ルビュジェも在籍している。
注4)『建築史』(市ヶ谷出版、1970年)より転載。
注5)筆者は、2007年8月に見学した。
■ワルター・グロピウス■
ワルター・グロピウス(1883年~1969年、注6)は、ベーレンスがタービン工場の設計を行っていた時期に、ミースやコルビュジェと一緒に事務所で働いています(1908年~1910年)。1911年に独立し(注7)、1913年、アルトフェルトに「ファグス工場」を完成させます。
●ファグス工場●
「ファグス工場」は、グロピウスとアドルフマイヤーによって設計されました(注8)。外観の、底部と頂部を壁面とし、他はガラスのカーテンウオールとする構成は、現代建築と違和感がありません(図6・7)。ただ、教科書の写真では、鉄筋コンクリート造の白い壁面という印象でしたが、現実の壁面は黄色いレンガ張りでした。ガラス壁面による隅角部の構成は(図8)、後の「バウハウス」を彷彿とさせます。この構成は、ベーレンスの「タービン工場」の石壁の隅角部と対比され、「建物内外のきびしい分離感をまったく取り除いている」と評価されています(前掲注1)。一分の隙もない感じの建築でした。
ベーレンスによって開かれた、工場建築という近代建築の新たな分野は、グロピウスの工場によって、その様式が確立されたと評されています。
注6)ウィキペディア「ヴァルター・グロピウス」では、勤務期間を1908年 ~1910年としているが、前掲注1)では、1907年~1910年とある。人 名表記やグロピウに関する記述で断らない場合は前掲注1)による。
注7)山口広『解説・近代建築史年表』(建築ジャーナリズム研究所、1968 年)。
注8)ウィキペディア「ファグス工場」。設計者については、グロピウスの みとする説と(前掲注1)、グロピウスが「アドバイスをして、アドル フ・フィガーがやった」とする山口文象の証言があり興味深い(佐々 木宏『近代建築の目撃者』)。2011年に、「アルフェルトのファグス 工場」として、世界文化遺産に登録されている。
■ペレー兄弟■
新しい構造として、鉄筋コンクリート構造による建築も大きな影響をあたえるようになります。ここでは、その先駆者として、オーギュスト・ペレー(1874年~1954年)とギュスターヴ・ペレー(1876年~1952年)兄弟の作品をみます(注9)。
注9)第47回でも紹介している。
●フランクリン街アパート●
ペレー兄弟は、1903年、パリに「フランクリン街のアパート」(パリ)を完成させます(図9)。この建築は、①鉄筋コンクリート構造の骨組が、「粉飾されずに建物の構成要素としてはっきり外面に現れている。」、②両側の、「片持梁で突き出した部分だけが、この装飾なしのファサードをいっそう軽快なもの」にしていると評価される一方で、この「軽快」さが、「当時の人には脆弱な印象を与え、(中略)専門家がその急速な崩壊を予想したので、銀行はこのアパートの抵当を拒絶した」(前掲注1)そうで、完成当時、受け入れられなかった状況が紹介されています。
しかし、よく見ると、花柄の装飾があるのですが(図10)、この程度では、当時の人には無装飾の範囲だったのでしょうか。ペレー兄弟は、定礎にも「A.G.Perret」と、兄弟名で記載しています(図11)。
●ランシーのノートルダム教会堂●
ランシーのノートルダム教会堂(1923年)では、身廊・側廊で構成される伝統的な平面を用いながら、外観・内部ともに、鉄筋コンクリート構造で新しい空間を完成させています。特に、従来の、石壁に対する打放しコンクリート(図12)、ポインテッド・アーチに対するシェル屋根(図13)、ステンドグラスに対する色ガラスをはめこんだブロックの壁面(図14)などが注目されます(前掲注1)。
■閑話休題■
筆者は、第47回で南大阪教会(村野藤吾、1923年)を紹介した際に、同教会の意匠にについて、ランシーのノートルダム教会の影響などにも触れ、「独立後の昭和5年早春から、3回目の世界視察にいきます。この時は。ノートルダムを実見していますので、南大阪教会完成後に、実物を見たことになります。」と記しました。下線部の出典は、石原季夫「村野事務所草創の頃」、(『村野藤吾建築案内』所収、TOTO出版、2009年)です。
ところが、昭和5年の洋行は独立の翌年にあたり、これは2回目の洋行です(前掲注8『近代建築の目撃者』)。この出典は石原からの聞き取りですので、石原の記憶違いや誤植の可能性があります。
海外の建築は、テキストなどに掲載された写真の印象が強いため、現物を見たときの周囲の景観や色彩などの大きなギャップに、驚きと感動を覚えることが多々あります。