琵琶湖ホテル①-地域のお宝さがし-41
所在地:〒520-0022 大津市柳が崎5-35
■「国際観光ホテル」計画■
1929年(昭和4)10月の世界恐慌にまき込まれたわが国は、貿易収支の改善策として外国人観光客(外客)誘致を掲げます。昭和5年、鉄道省に設置された国際観光局は、地方自治体が新築や改築するホテルの観光地としての価値(都市や湖畔・高原などの立地、避暑・温泉・海水浴などのテーマ性)や将来の業績などを検討し、大蔵省預金部の資金融資を行いました。これにより、全国で開業した「国際観光ホテル」(表)の一つが琵琶湖ホテルで、大半の「国際観光ホテル」が現在も継承されています。
このような建設の手法は、観光立国を目指し、多くの訪日客を迎えようとする現在にもつうじるもので、その先見性が窺われます。
■琵琶湖ホテルの設計
●岡田信一郎に依頼●
滋賀県では、昭和6年8月に外客向けホテルの建設を掲げ、同年秋頃までに岡田信一郎に設計を依頼しました。岡田は、明治39年(1906)東京帝国大学卒業。大正元年(1912)早稲田大学教授、大正12年東京美術学校教授、大阪市公会堂指名競技設計1等入選(明治45年)、大阪高島屋呉服店(大正11年)、歌舞伎座(大正14年)、明治生命保険会社(昭和9年、図1、重文)などの作品があります。
図1
ことに、和風の歌舞伎座(図2)は、東京では初めての試みで、多くの建築家に注目され、「屋根形態を城郭風に、内外部意匠は桃山社寺を基調にし新味を加え、・・歌舞伎の豪華さを表」したデザインと評されています(注1)。
図2『近代建築図集改訂新版』
ところが、岡田は、この年4月に病気のため早稲田大学辞任、東京美術学校も休職していて、設計活動にも支障をきたしていたと推測されますが、それでも、翌7年1月下旬に2~3の設計案を提示しています。それだけ、魅力的な仕事だったのでしょう。
注1)伊藤三千雄他『日本の建築明治大正昭和8様式の挽歌』三省堂、1983年)
■意匠が変わった■
昭和7年3月1日には、「東京の斯界の大家岡田信一郎博士に依頼中であり・・外観は和様折衷・・内容設備は・・純洋式」(注2)と、設計者と1月下旬の設計案の一部が新聞発表されます。しかし、翌2日には、外観は和風破風造、名称は「グランド・レーキ・ホテル」と報じられ、5月8日に、外観は現代建築に日本趣味を加味した和風意匠の3階建て、破風造で、のちの琵琶湖ホテルとほぼ同様の外観透視図が発表されました。
●弟が引き継ぐ●
設計を依頼した経営者側は、和風意匠を期待していたが、岡田が「斯界の大家」のために、それを直接言えなかったのではないかと推測されます。そのため、和洋折衷の外観が示された1月下旬の時点で、改めて「和風」での設計を依頼したのではないでしょうか。和風の外観にこだわるのは、「外国人によろこばれたい。いや、よろこばせてみせる。」(注3)という、「経営者側の意向によるもの」(注4)と思われます。しかし、岡田の病状がそれを許しませんでした(4月4日逝去)。
岡田は、1月下旬以降、病状から和風意匠の設計は困難と判断し、弟の捷五郎に歌舞伎座を念頭においた、和風の設計を指示したのではないでしょうか。
岡田捷五郎は、大正9年東京美術学校卒業。卒業後、岡田の事務所に勤務していますので、兄の設計手法は熟知していたでしょうし、また、捷五郎自身、前田健二郎と共同で、神戸市公会堂(大正12年、1等)、早稲田大学故大隈侯爵記念大講堂(同年、1等・佳作)のコンペに入選(注5)するほどの技量の持主でした。
捷五郎は、岡田の病状から、琵琶湖ホテルが岡田の違作となると考え、歌舞伎座に似通った外観としたのではないでしょうか。岡田は、和風の琵琶湖ホテル、洋風の明治生命保険会社を違作とし、弟捷五郎がその両作品の後始末をしたのです。
時系列で振り返ると、岡田に敬意を表して、依頼状況と設計案を3月1日に発表し、翌2日に捷五郎が携わった案の概要を示し、ほぼ決定した案を5月8日に発表したのでしょう。この案も昭和8年夏頃に室数が減少され(図3)、9月に国際観光ホテルとしての承認を得て、同年11月に建築認可申請書が提出されました。
図3砂本文彦『近代日本の国際リゾート』
注2)砂本文彦『近代日本の国際リゾート』(青弓社、2008年)
3)井上:井上章一『夢と魅惑の全体主義』(文春新書、2006年)
4)「月刊岡田信一郎第6号1999年8月号」
5)近江榮『建築設計競技』(鹿島出版会、1986年)
●評価●
昭和9年11月に開業した琵琶湖ホテルは、平成10(1998)年10月に浜大津に移転し、その旧本館は、琵琶湖の観光拠点や市民が利用できるギャラリーを備えた文化施設「びわ湖大津館」として活用されています(図4~10)。
図4正面
図5背面(湖側)
図6 2階展望テラス
図7 軒先
図8 壁面
図9 ロビー
図10 宴会場
琵琶湖ホテルについて、「・・和洋の両刀を使いこなす切れ味の良さは群を抜いている。この建築の祖型といえるのが東京歌舞伎座(大正13年)で、岡田が和風意匠に挑んだ最初の作品である。」(注6)と、様式建築に精通した岡田ならではと思わせる評価があるのは、捷五郎が岡田の設計手法を熟知するととともに、自身もコンペで入賞するほどのデザイン力の持ち主であったからでしょう。
注6)『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会、1984年)
■参考文献
拙稿「琵琶湖ホテル」(『建築と社会』2011年11月号)
『日本の建築家』(新建築1981年12月臨時増刊)
次回は、未完成に終わったダンスホールについてみます。
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