新田会所の建築(3)安中新田会所-地域のお宝さがし-30
所在地:〒581-0084 八尾市植松町1-1-25
■旧大和川筋の開発■
すでに見た鴻池新田・平野屋新田は、隣接する二つの池が開発されたもので、立地や作物・経営など多くの共通点があり、会所の形態も酷似していました。
一方、宝永元年(1704)の大和川付け替え後、主に安福寺(柏原市)と周辺の村によって開発された久宝寺川(長瀬川)の両岸が、安中新田となります。
その規模は、享保6年(1721)で約47町(約141,000坪)、作物は全て綿です。旧大和川筋の河床は、砂地で水田に不向きなため、川筋を開発した新田では綿が栽培され、これが河内木綿の増産につながります。同じ内陸部でも立地によって作物が異なっていたのです。
開発から16年、享保6年頃の様相が図1(注1)で窺われます。池と川筋の開発が盛んに行われた背景には、農業技術の発展が見逃せません。
図1
注1)図1・2・9は「安中新田会所跡旧植田家住宅」より転載。
■安中新田会所■
●支配人●
安中新田開発の6年後、正徳元年(1711)に作成された「安中新田分間絵図」に「会所屋敷」の記載があり、当時、会所が存在していたことが分かります。なお、規模は現在の敷地の約1/3といいます(注2)。
新田の支配人は、村役人である「庄屋兵左衛門 肝煎長兵衛」と安福寺の関係者である「柏原村忠右衛門 清兵衛」で、この形態は明和2年(1765)に「支配人伊左衛門」が亡くなるまで続くようです。その後、植田家初代林蔵が支配人になり、代々引き継がれます(注3)。
植田家は、支配人を務めながら質屋・酒造業なども行い、家業の発展を図っています。安中新田の支配人は、鴻池新田などのような主家の従業員ではなく、村の役人や会所に住み込んだ、いわゆる雇用された支配人とでもいえそうです。さらに、5代目一郎は、明治5年(1872)以降、村の役員・議員などを務め、地域の発展に貢献しています。このような仕事柄、会所に増改築が施され、議員の屋敷としての体裁が整えられていったと推察されます。
●配置●
植田家の施設配置は、前面道路に面して表門・土蔵など、敷地中央部に主屋、南部に庭が設けられています(図2)。会所時代の敷地規模は現在の1/3程度だったようですが、具体的な施設の配置などは不明です。
図2
●間取りの変遷●
江戸時代後期、文政5年(1822)当時の規模は、概ね図2に加筆した赤線の左側程度で、表と裏の「ウチニワ」(図3、現状、以下同じ)と「落床」に面する2室、その他の構成であったようです。
図3
明治5年頃に、「ウチニワ」を小さくして「式台」が作られ、「式台」に面する室が「クチノマ」と「ナカノマ」に区分され、「仏間」・「ツギノマ」・「座敷」(1・2)などが増築され、さらに、明治33年頃に2階に居室が作られ、現状の間取りになったようです。
つまり、江戸時代には会所の間取りを伝えていたが、明治5年、5代目一郎が村の役員を務めるようになった頃に、植田家は大きく間取りを変更し、接客動線が重視された屋敷に生まれ変わります。来客は、「式台」・「クチノマ」(図4)→「ツギノマ」→「座敷」(2)を経て奥の「座敷」(1)(図5・6・7)にとおされます。
図4
図5
図6
図7
座敷1と2の境には欄間が設けられ、座敷1の周囲には長押が,回され、正面は1間幅の床の間・出書院、床脇は天袋と違い棚で構成されています。これらの設えは、江戸時代には作事制限の対象でしたが、明治時代にはその制限がなくなり広く普及します。
また、明治時代後期以降。2階にも居室が設けられるようになります。
植田家では明治5年の増改築の際に屋根裏であるつしを拡張しただけで、同33年の増改築の際に2階に座敷などを設けたのでしょう。
●主屋 町屋風な外観●
主屋は、階高の低いつし2階に、虫籠窓が設けられた町屋風の外観です(図8)。式台の上部に入母屋屋根が設けられていないのは、増改築の時期が明治5年と早かったからかも知れません。
図8
このように植田家は、近世後期の会所の様子と、近代における旧家の景観(表門・土蔵・主屋など)がよく残された貴重な住宅です。
■閑話休題■
植田家の展示室の床に、「安中新田分間絵図」(正徳元年=1711)が展示されています。縦約1.5m、横約6.5m、縮尺約1/300の巨大な絵図です(図9)。
図9
解説もされていますので、じっくり見て楽しむことができます。床に展示された絵図といえば、「暮らしの今昔館」(天六)にも、大正時代の大阪の絵図が展示されていて、つい自分の家はどのへんかなと探してみたい衝動に駆られます。
植田家の絵図からは、当時の安中新田の様子が窺うことができ、頑在との違いに驚くこと間違いなし。一見の価値あり!
次回は、木津川河口部に開発された加賀屋新田会所を紹介します。