白河小峰城・JR白河駅 -地域のお宝さがし-94
所在地:福島県白河市郭内
■白河小峰城■
●沿革・縄張りなど構成●
白河小峰城(以下、小峰城)は、寛永4年(1627)6月、棚倉藩(現福島県東白川郡棚倉町)から移封された丹羽長重によって、寛永6年から4年の歳月をかけて修築された平山城で、「天守代用の三重御櫓」(以下、三重櫓)も建設されました。本丸の周囲に配された「帯曲輪」は、東部では「竹之丸」と称され、北西部と南東部に堀が設けられています。「三重櫓」は、本丸の北東部に位置し、その南部に二の丸、二の丸の南東部に三の丸が配された梯郭式(ていかくしき)の縄張りで構成されています(図1、注1)。なお、「三重櫓」の外観は、各階の屋根の大きさが規則的に逓減し、それに付櫓が不属する層塔型複合式です。
その後、藩主が替わりながら存続しますが、八代目の城主阿部正静が慶応3年(1867)(注2)棚倉に移封された後は幕府の直轄地となり、二本松藩が預かりますが、戊辰戦争白河口の戦い(慶応4年6~8月)で落城、施設の大半が焼失しました。明治6年(1873)の廃城令では存城処分となり、城跡には、曲輪や石垣・堀などが残されましたが、諸施設は近年まで再建されませんでした(図2)。
注1)図1は、『図説正保城絵図』(新人物往来社、『別冊歴史読本76』2001年)より転載・加筆。図2は、『日本城郭体系3』(新人物往来社、1981年)より転載。図11は、城内設置の説明板による。
注2)『日本城郭体系3』、『週刊日本の城』「白河小峰城」では、慶応2年とある。
●復元・整備●
平成3年(1991)に「三重櫓」(図3)、平成6年に「前御門」(図4)が、史料に基づいて木造で復元され、石垣・堀などは整備されました。図5は、図2と同じ位置(北西部)、図6は、本丸北東部(柵の向こうは、本丸北面の帯曲輪)ですが、整備された様子が窺われます。
正面の清水門(図7)を入り、右へ回ると「前御門」と「三重櫓」が見えます。その右側は「竹之丸」(東部の帯曲輪)です(図8)。
清水門を左へ行くと、桜門の石垣が残されています。加工された切石を密着させた「切込み矧ぎ(きりこみはぎ)」で積み、隅部は、長方形の切石の短辺・長辺を交互に積んだ「算木積み(さんぎづみ)」としています(図9)。
本丸は、周囲より低い平坦地で(図10)、御殿が設けられていました(図11)。
■JR白河駅■
JR白河駅は、小峰城の三の丸の南部に位置するのでしょう、ホームから、「三重櫓」・「前御門」の屋根の構成が美しい姿が見えます(図12)。ホームの上屋の柱・小屋組は、木造の洋風小屋組(トラス)です(図13)。
駅舎の外観は、正面の切妻屋根の妻面上部に時計、その下部に矩形の装飾、両脇の壁面は垂直・水平線によって壁面が区切られ、窓が設けられ、入口上部には瓦棒葺の庇、背後は寄棟・切妻屋根で構成された、アール・デコ風の意匠です(図14)。この駅舎は、大正10年(1921)から用いられているそうですが(注3)、内部のステンドグラス(図15)とともに、当時の雰囲気がよく残されている、美しい駅舎です。このような木造や近代建築の駅舎を見ると、ホットします。
注3)ウィキペディア「白河駅」
■閑話休題■
「天守代用の三重御櫓」 城郭は、近世初期の天正・文禄・慶長期に急速に発展しますが、公儀は、「元和一国一城令」(元和元年[1615])によって少城郭を破却させます。さらに、五重の天守の新築や再築は、寛永年間以降は三重に限られたため、三重以上は不許可という不文律があったようです。公儀自身、江戸城(明暦3年[1657])・大坂城(寛文5年[1665])の焼失以後、天守を復興しませんでした。そのため、城郭の中心的な建築を「天守」とせず、「三重御櫓」などと称されました(注4)。
駅から見える城 小峰城のように駅から見える城では、明石城(図16、兵庫県)、姫路城(図17)が印象に残っています。
近年、多くの城が復元されています。機会を見つけて訪れたいものです。
注4)藤岡通夫『日本の城』(至文堂、1969年)