新田会所の建築(5)加賀屋新田会所②-地域のお宝さがし-32
所在地:〒559-0015 大阪市住之江区南加賀屋4-8
■鳳鳴亭■
鳳鳴亭に入る前に、現状の平面図を再度確認しておきましょう(図1)。
図1
旧書院の次の間に接する、北側の渡り廊下を通って居宅へ至ります(図2)。
図2
縁側の突き当たりの壁面に、竪繁障子・木瓜形欄間が設けられています(図3)。この右側、杢目の美しい階段から鳳鳴亭に入ります。
図3
鳳鳴亭は、座敷は8畳ですが、次の間との室境の西側2畳の上部に垂れ壁が設けられ、6畳と2畳に区分されています。6畳の垂れ壁に「鳳鳴亭」の額が掲げられ、正面には、琵琶を置く台が敷設された琵琶床と平書院が設えられています(図4)。
床柱・框・落とし掛けは丸太や竹、天井は竿縁、東側の2畳部分は網代張り、次の間は竹の竿縁天井と、変化に富んだ空間になっています(図5)。
図5
さらに、西側の小壁には櫛形の下地窓が設けられ、広縁上部の丸い垂木や建具上部の彫り物など、様々な意匠が施されています(図6)。
図6
■庭園■
庭園は、池や築山などの変化に富んだ景観が楽しめる林泉回遊式の名園で、既述のように、大正3年(1914)西村天囚によって「愉園」と命名されています。池の北部の舟着場から、当主が舟で十三間堀川を通って心斎橋まで芝居を見に行ったといいます(図7・8)。
図7
図8
■会所の図面■
●内容●
会所には、江戸末期または明治初期とされる図面が展示されています。これを元に作図したのが図9です。玄関が、次の間の南部に位置することから、文政10年(1827)以降の状況であることが分かります。
図9
現状(図1)と比較してみると、
①渡り廊下が現状より1.5間程西にあり、北端で「新座敷」(鳳鳴亭)に連絡されている。
②「座敷」(旧書院)西部の縁側の幅が現状の倍ほどあり、北側の縁側に「便所」が設けられている。
③「新座敷」は、居宅から独立している。
④居宅は、「座敷」と「新座敷」の間にあり、東西方向に「仏間」・「中座敷」などが三室、二列に並ぶ六間取りで、北部に「奥之間」が設けられている。
これらから、会所は、①南部の「座敷」(接客空間)、中央部の居宅(生活空間)、など、北部の「新座敷」(趣味空間)などで構成されていた。②居宅には、住居機能だけでなく、「店庭」・「店之間」などの経営機能も備えられていた。③渡り廊下に面する庭は、「座敷」からの視線を「便所」で遮断していることから、「仏間」・「中座敷」の庭であると考えられる。さらに、文化12年(1815)に鳳鳴亭とともに補修された居宅は、「奥之間」だったのではないかと推察されます。
趣味空間が充実しているのは、ここで居住した甚兵衛が、新田経営の仕事のかたわら、余暇に茶を嗜み、庭園を楽しむためだと思われます。数寄屋風建築は、甚兵衛の趣向でしょうが、「座敷」には床の間・付書院などの格式が調えられています。当地の風光明媚さや庭園の素晴らしさが拡がり、武家の来訪も多かったようです。
●作成時期と動機●
会所の所有者である桜井本家は、明治末年(七代菊太郎)に退転し、「福島某に売り払われたが、昭和七年現在の武田元助氏が荒廃を惜しんで」譲り受けたそうです(注1)。この「福島某」は、昭和6年6月時点での居住者、福島愛太郎のことでしょう(注2)。明治末年に福島氏に譲渡される際、記録や記念などのために、桜井本家が会所の様子を描いたのではないでしょうか。図面と現状との違いは、福島・武田氏と居住者が代わる過程で、変更されたものと推測されます。
注1)川端直正編『敷津浦発展史』(1974年)
2)梅原忠治郎「愉園を見る」(「上方」1931年6月号)
■閑話休題■
当主が別荘として用いた新田会所に、春日出新田会所があります。現在は三渓園(横浜市)に移築され、重要文化財に指定されている瀟洒な建築物です(図10・11)。
図10
図11
同会所は、和歌山の岩出御殿が泉佐野の豪商食野左太夫に授けられ、食野家が開発した春日出新田に別荘として移築し、その後「八州軒」と称されてきたとされてきましたが(注3)、近年の研究で、春日出新田会所(以下、春日出)として建築されたことが明らかにされました(注4)。それによると、会所の外観は、本瓦葺きで、「どっしりと重いもので、それは新田会所のあった大阪あたりの民家のデザインそのもの」であったといいます(図12)(注5)。
図12
とすると、春日出の外観は鴻池と類似し、会所が「八州軒」と称されたのは、加賀屋の「鳳鳴亭」と共通すると思われます。風光明媚な庭と景色が楽しめたのでしょう。食野家が所在する泉佐野(大阪府泉佐野市)から、春日出新田(大阪市此花区)への移動は、大阪湾を船で移動するため相当な時間がかかったと思われます。そのため、当主が新田経営会所に別荘の機能をもたせたとしても、不思議ではありません。さらに、「大阪あたりの民家のデザイン」という外観も、穿った見方をすれば、食野家の本宅を模したのではないか妄想してしまいます。
注3)「大名別荘の転々生々。」(「大阪人」2003年10月号所収)
4)西和夫『三渓園の建築と原三渓』(有隣堂、2012年)
5)『三渓園重要文化財建造物修理工事報告書』より転載。