大阪都心の社寺めぐり―地域のお宝さがし-03少彦名神社周辺(町家の年代)
■町家と長屋■
江戸時代の町家は、間口が狭く、奥行きの深い、いわゆる「うなぎの寝床」といわれます。町家と似たものに「長屋」があります。長屋は、「棟割長屋」という言葉があるように、1棟の建物を壁で区画しているので、各住戸は壁を共有しています。町家は壁を共有しない「独立家屋」です。外観は、長屋の屋根は一つで、高さに変化はありませんが、町家は屋根の取り合いの関係から、高さに変化がつきます。また、大坂や京都では、間口10間以上の町家を「巨戸」、2.5間以上を「中戸」、2間以下を「小戸」として、規模によって呼び名が変わりました(『守貞謾稿』)。少彦名神社周辺には、江戸時代後期と明治時代初期・後期の町家が残されています。これらの町家の屋根は桟瓦葺きですが、大坂では本瓦葺きの屋根が多かったようです。それぞれの違いをみてみましょう。
■江戸時代の町家■
旧緒方洪庵家住宅(天保年間)〒541-0041大阪市中央区北浜3-3-8
内北浜通りに沿いに建つこの町家において、天保9年(1838)緒方洪庵が「適塾」を開きました。表に面する店舗棟(表屋)は、階高の低い「つし二階」建てで、縦長に穿たれた「虫籠窓」[むしこまど]、その両端には「卯建」[うだつ]と呼ばれる袖壁が設けられています。「卯建」は、火災時の類焼を防ぐ防火壁の役目を果たしました。軒裏は、漆喰で塗り込められています。店舗棟の奥に「玄関」が設けられ、その奥が「居住棟」です。このように、表屋の奥に居住棟を配した形式を「表屋造り」といいます(図1)。
図1
巨戸・中戸の町家は表屋造りで建てられることから、適塾は、規模は中戸、形態は表屋造りと判断されます。また、つし二階は本来居住用ではありませんが、適塾では塾生部屋として用いられていました(図2)。
図2
同家は、昭和39年(1964)に重要文化財に指定され、昭和50年代に当初の姿に近い形に復元されました。図1でも分かるように、現在の適塾は両側がポケットパークのように整備されていて、町家本来の雰囲気が分かりません。図3は整備される以前の適塾の様子です。右側は町家ではありませんが、町並みの雰囲気が窺われます。
図3
■明治時代の町家■
かんてきや要(明治元年=1868)〒541-0045大阪市中央区道修町3-3-4
道修町通りと心斎橋筋の東南部に建つこの店舗が「かんてきや要」です。民家などの調査をしていると、その外観からおおよその建築時期が推定できるようになります。最初に同店を見たとき、江戸時代末期か明治時代初期の建築ではないかと思いました。江戸末期と明治初期では、形態に明確な違いがみられないことが多いのです。都市住居としての町家は、明治以降、2階が居住用として用いられるようになるため、階高が高くなります。ところが、同店のホームページには、「大正建築の一軒家」として紹介されていました。大正期ですと、階高はもっと高くなると思われます。そこで、建築時期を確かめてもらうと、明治元年(1868)に建築され、大正13年(1924)頃には医院として用いられたということが分かりました。側面の形態と規模から、中戸の表屋造りであることが分かります(図4)。
図4
正面を見ると、適塾と同じ「つし二階」建て、軒裏は塗り込められ、両端部に「卯建」が設けられています(図5)。
図5
適塾の明確な建築年代は不明ですが、適塾が開かれた以前の天保年間とすると1830~38年となり、同店との建築年代の差は38~25年です。生活様式が大きく変わらないこの時期、この年数の差から大きな違いをみることは困難です。一方、右側の土蔵は、妻側の煉瓦積み壁面から明治以降の増築と考えられます(図6)。
図6
旧小西家住宅(明治36年=1903)〒541-0045大阪市中央区道修町1-6-10
道修町通りと堺筋の角地に位置する小西家は、初代小西儀助が明治初期に薬種商を創業したことに始まります。同家は二代目儀助が建築したもので、規模は「巨戸」、形態は「表屋造り」の大規模な町家です(図7)。
図7
表屋2階の壁面は漆喰塗りで、軒裏まで塗り込められています。また階高は、「つし二階建て」の「適塾」・「かんてきや要」と比べて、明らかに高くなっていることが分かります。さらに、1階東端には地上から大屋根まで、屋根付きの「卯建」が設けられているのも明治時代以降の町家の特徴といえます(図8)。
■閑話休題■
様々な物事を調べる際に、「ウィキペディア」や「ホームページ」が利用されます。ネット検索は便利で、自分もよく利用しますが、それに頼り切るのは考えものです。例えば、「かんてきや要」の建築について、ホームページには「大正建築の一軒家」とありましたが、これは明治初期との確認が取れました。また、明治36年に建築された旧小西家住宅は、「ウィキペディア」に、「設計者本間乙彦(意匠)、構造設計者渋谷五郎(基礎)」と記されていますが、本間乙彦氏の生年は、明治25年2月24日です。まさか11才で設計できるわけはないでしょう。ネット検索は調べるきっかけを得るには重宝されますがが、併せて辞典などの文献にもしっかり目を通したいものです(自戒をこめて!)。
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