建築家小笠原祥光の仕事⑦ -地域のお宝さがし-89

■商業建築■
 前回は、小笠原祥光が設計した商業建築のうち、装飾系意匠の作品を紹介しました。今回は、簡略化された非装飾系意匠の作品を紹介します。小笠原の作品は、非装飾系意匠の作品が多いことから(第88回表1)、16年間の設計活動期間を、前期(大正10[1921]~15年)・中期(昭和2[1927]~6年)・後期(昭和7年以降)に分けて、各期の作品を見て行きます。なお、建築時期が不明な作品は、便宜上、後期に分類しています。

●非装飾系意匠の作品●
【前期】
①安宅商会(大正13年[1924]、図1) 同商会は、正面の下部を石張りとして基壇的に扱い、最頂部のコーニスには垂直線による蛇腹が設けられています。壁面は、垂直方向に大きく3分割され、その中央部を1段突出させて両端と区切りを付け、両端の壁面には縦長の開口部が設けられています。

図1 安宅商会

 突出させた壁面は3分割され、その中央部を簡略化されたオーダーでさらに3分割し、上部には矩形の渦巻き文様が施されています。なお、右端に設けられた玄関上部の庇は、壁面からの引張材で支持されています。同商店は、竣工当時「今橋界隈では唯一の近代ビルとして」注目を浴びました(注1)。

注1)『安宅産業六十年史』(同社社史編集室編、1968年)

②池田実業銀行(現いけだピアまるセンター、大正13年、図2) 同行は、正面の下部を石張りとして基壇的に扱い、最頂部には突出したコーニスが設けられています。壁面は垂直方向に9分割され、レンガ張りで仕上げられています。両端の壁面は、他に比べてやや広く、他の7間は、大きな矩形の文様が刻まれた梁で水平に分割されています。基壇からコーニスに届く柱形には柱頭飾りなどは設けられていませんが、オーダーを想起させます。

図2 池田実業銀行

 下部中央の3間に1段突出した石張りの壁面が設けられ、その中央部には、頂部を半円アーチとした玄関が配され、上部の庇は壁面からの引張材で支持されるとともに、両端の上部にランタンが配されています。

③中田商店(大正14年、図3) 同店は、正面の下部を石張りとして基壇的に扱い、最頂部のコーニスには、安宅商会と同様の蛇腹が設けられています。上部の壁面はレンガ張り、上下の境目にはブラケット(持送り)で支持されたバルコニーが配され、下部中央の玄関の周囲にも、コーニスと同様に処理された幅広の額縁が設けられ、庇は壁面からの引張材で支持されています。

図3 中田商店

 上部には、頂部を半円アーチとし、玄関と同様の額縁で周囲を囲んだ縦長の開口部が3つ設けられ、背が高い中央の開口部には、さらに2連のアーチが設けられています。これらの開口部は、小さな矩形が刻まれた梁で水平に分割され、2~3層を通して一体化しています。

④河盛商店自動車陳列場及工場(大正15年、図4) 同店は、隅角部を正面とし、頂部に45度に振った長方形の開口部が設けられ、両脇の渦巻状文様が施されたパラペットに高低をつけることで、正面性が強調されています。下部は石張りとして基壇的に扱い、上部の壁面には、頂部を半円アーチとした縦長の開口部が設けられ、大きな矩形の文様が刻まれた梁で水平に分割されています。開口部両脇の壁面には竪長の矩形が刻まれ、その頂部に文様が施され、オーダーを想起させます。なお、玄関の上部の庇は、壁面からの引張材で支持されています。

図4 河盛商店自動車陳列場及工場

 道路側も正面と同様の意匠ですが、見方を変えると、梁で開口部の中央が分割されているため、上半分のアーチが連続するアーケードのようなリズム感を生じさせています。全体に矩形の文様が多い、セセッション風の意匠です。
 以上の前期4作品は、「近世復興式」によりながら、省略された装飾、オーダーを想起させる柱形やアーチなど、装飾を控えめにする一方で、セセッション風の意匠も試みられています。

【中期】
⑤原田商事(株)本店(昭和2年[1927]、図5・6) 同店は、下部を石張りとして基壇的に扱い、最頂部には突出したコーニスが設けられています。右端の半円アーチが施された玄関の左壁面を一段突出させ、右端壁面と区切りをつけています。右端と突出した壁面の両端に頂部が半円アーチの開口部が設けられています。

図5 原田商事(下部)本店
図6 (現状)

注目を浴びたことが窺われます。両者を比較してみると、全体のプロポーションや壁面の構成、壁面中央部の装飾、開口部の位置などが類似していますが、同店では突出した壁面の中央部の柱間が広く、開口部や玄関上部に半円アーチが用いられるなど、細部において相違点が見られます。

⑥野呂克商店(昭和5年、図7) 同店は、正面の下部を石張りとして基壇的に扱い、最頂部のコーニスにはロンバルディアバンドが施されています。正面(右側)の壁面は、垂直方向に大きく3分割され、左端の壁面には縦長の開口部が2列、右端には同様のものが1列配されています。中央部の壁面は、入口の上部に庇が設けられ、その上部は6分割され、上部に簡略化された装飾が施された細めの柱形は、2~3層を通すジャイアントオーダーを想起させます。壁面はタイル張りの平滑な壁面で、1階の窓だけに太い窓枠がはめ込まれ、側面ではその上部に半円アーチが施されています。

図7 野呂克商店

⑦山王ホテル(昭和5年、図8) 同ホテルは、平滑な壁面、窓上部に設けられた連続する庇、手すり付きのバルコニーなど、インターナショナルスタイルの意匠です(注2)。『写真帳』には、「地下室ハ有名ナル大スケート場」との記載があり、大スケート場が設けられていたことが分かります。当時、わが国を代表する高級ホテル1つであったようです(注3)。同ホテルは、「二・二六事件」(昭和11年2月26日)の際、陸軍の青年将校の部隊が収容されたことでも有名です。戦後は、連合軍に接収され、昭和58年まで在日アメリカ軍の施設として存在し、1990年代前半に取り壊されました。

図8 山王ホテル

 以上の中期3作品は、前期と同様、省略化された装飾、オーダーを想起させる柱形やアーチなどが用いられますが、平滑な壁面の一部に装飾を効果的に用いたり、インターナショナルスタイルを採用するなど、「近世復興式」によりながら、新しい意匠への取り組みが窺われます。

注2)松葉一清『帝都復興せり』(平凡社、1988年)には、「インターナショ         ナル・スタイルを基本とする大規模ホテル」とある。
注3)ウィキペディア「山王ホテル」

【後期】
⑧山口商店(昭和9年、図9・10) 同店の①案は、5階建てで壁面がセットバックする構成です。装飾は施されていませんが、1階部分の柱配置、2階以上の開口部に挟まれた柱状の壁面などに、様式建築の骨格が感じられます。
 ②案は、①案と比較して規模が縮小されていますが、1~3階の壁面構成は①案を踏襲していることが分かります。開口部の上部に設けられた横長の連続した庇、屋上のペントハウスの隅角部が欠き込まれた窓など、インターナショナルスタイルの意匠です。なお、規模が縮小されていることから、①案は、②案の右下隅のスタンプに記入された「昭和9年3月3日」以前に作成されたものと推測されます。また、『写真帳』には「工事未遂」とあり、実施されなかったようです。

図9 山口商店①案
図10 山口商店②案

⑨天満屋百貨店(昭和9年、図11) 同店は、正面を庇などで水平方向に3分割され、1階部分を列柱とし、その上部壁面を大きく垂直方向に3分割するとともに、中央部分は柱形で21分割され、その上部に横長の連続した庇が設けられています。壁面の構成は、左端壁面を高くし、庇下部の開口部を小さくするなど、立面の構成に変化がつけられています。水平に連続する庇や丸窓、側面のバルコニーなど、インターナショナルスタイルの意匠ですが、中央部の柱形にオーダーを感じるのは、筆者だけでしょうか。

図11 天満屋百貨店

 同店は、渡辺仁建築工務所の設計で昭和11年8月に竣工しています。小笠原から渡辺に設計者が変更された経緯については不明です(注4)。

注4)天満屋百貨店のご教示による。

⑩九条百貨店(注5)(時期不明、図12・13) 同店の①案は、壁面全体が水平方向に大きく3分割され、下部は1~2層を基壇的に扱い、開口部は垂直方向に3分割して2層まで連続する縦長の開口部とし、それを横長の庇によって水平方向に2分割して、1階に玄関やショーウインドウが設けられています。中部は、壁面の仕上材を変えて、3~7階までを枠組みで構成し、その内部をさらに垂直方向に3分割することで、垂直性が強調されています。正面の上部には、内部が3分割された半円アーチの開口部、側面には同様の矩形の開口部が設けられています。正面の下部と上部の中央部を高くして店名を掲げることで、壁面構成に変化がつけられています。

図12 九条百貨店①案
図13 九条百貨店②案

 ②案は、1~2層を基壇的に扱い、上部壁面は垂直方向に7分割され、両端の壁面に各階ごとの開口部、中央部の5間は3~8階までを枠組みで構成し、その内部をさらに垂直方向に3分割し、最上階まで一体化して、垂直性が強調されています。垂直性を強調する意匠は、①案と類似していますが、①案の上部の半円アーチ窓が設けられていないぶん、様式的な要素が希薄になっています。
 以上、後期の3作品と九条百貨店は、インターナショナルスタイル、もしくは抑制された「近世復興式」による意匠が共通しています。
 

注5)外観透視図の玄関上部に「越」・「九条支店」と記されていることか             ら、三越百貨店九条支店と考えられるが、詳細は不明。

■閑話休題■
 近代建築の意匠に大きな影響を与えた「近世復興式」は、多様に変移します。それは、建築家の「個性」や「好み」といえるもので、「近世復興式」に、セセッションやインターナショナルスタイルなどを取入れながら実現された建築は、近代の都市景観を彩ったものといえます。一方、それらの建築物も、『どれほど形骸化していても古典系様式の象徴であるオーダーやさまざまの様式意匠がそれとわかれば、そしてプロポーションや立面構成が全体として古典系建築の骨格を感得せしめれば、ことごとく「近世復興式」と呼ばれる』(注6)ほど、「近世復興式」の影響が強かったともいえます。そこから解き放され、「モダニズム」に行き着くには、もう少し時間が掛かりました。まあ、「モダニズム」を好むか、好まないかは、建築家の意志によりますが・・・・。

注6)石田潤一郎「大阪建築家列伝」(『SPASE MODULATOR』50号所収、             日本板硝子、1977年)

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