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ヨーロッパの近代建築⑫バウハウス-地域のお宝さがし-133
バウハウス
工芸学校
バウハウスは、建築家ヴァン・デ・ヴェルデが、ザクセン大公ヴィルヘルム・エルンストの招聘を受け、1902(明治35)年、ヴァイマル(ワイマール)に設立した工芸ゼミナールに始まります。ゼミナールは1906年に工芸学校となり、校長に就任したヴェルデが1911年に校舎を設計しました。ところが、1914(大正3)年に第1次世界大戦が勃発したため、翌15年、ヴェルデは、後任をワルター・グロピウスに託してドイツを去りました(注1)。
注1)ウィキペディア「アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ」。
ワイマール校
教育方針 大戦が終了した1919年、工芸学校と既存の美術学校が合併し、バウハウス=ワイマール(ワイマール校)が開校され、グロピウスが校長に就任し(注2)、デザインと建築の近代的総合をめざす計画に着手します(注3)。その内容は、「表現派の運動につらなる新しい造形」を模索していたようで、そのため、校長のグロピウスは、ベルリン時代の友人を教師に招聘しています(注4)。
初期には、ヨハネス・イッテンによる、合理主義と表現主義による教育が行われていたところ、1922年にソ連からワシリー・カンディンスキーが招聘、構成主義的な傾向が表れますが、翌23年にイッテンがバウハウスを辞去したため(注5)、同年、「芸術と技術-新しき統一」が示され(前掲注4)、合理主義・機能主義へと向かいます。
当時の校舎は、ヴェルデ設計の旧工芸学校を改造して使用しており(注6)、1925年にデッサウへの移転するまで、この校舎が使用されたと思われます。
注2)『新訂建築学大系6 近代建築史』(彰国社、1970年)。
注3)『建築史』(市ヶ谷出版、2002年)。
注4)山口広『ドイツ表現派の建築』(井上書院、1972年)。
注5)ウィキペディア「バウハウス」。バウハウスに関する記述で断らない 場合は、同書による。
注6)堀口捨己(佐々木宏『近代建築の目撃者』(新建築社、1977年)。
デッサウ校
デッサウに移転したバウハウスでは、グロピウス設計の新校舎(1926年)が活動の拠点となります。校舎は、T字形に配された道路の北部に校舎1(附属工業学校)、南部に校舎2(工房)・3(食堂)・4(学生宿舎)が配され、南北の校舎は、道路をまたぐ校舎5(管理部門)で連結されています(図1・2、注7)。校舎名称から、1は教室棟、2は実習棟、3・4は学生の生活空間などとみられます。各校舎の機能を考慮した配置計画は、近代以前に行われた左右対称の配置計画とは大きく異なり、現代建築に通じるものがあります。
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校舎は、グロピウスの、「新時代の建築は、風土や民族の相違を越えて、国際的に共通の建築様式になる」(前掲注3)との主張に基づき、直線的な構成、無装飾の壁面とガラス窓、陸屋根、淡泊な色彩で設計されています。実際にみると、現代建築(モダニズム)そのもので、その端正な美しさに見とれてしまいます(図3・4・5)。
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工高(工業高校)の『教科書』などの写真から、校舎は白い建築と思っていましたが、部分的に原色(赤色)が施され、驚きました(図6・8)。また、梁に施された斜めのハンチ(図7・8)や暖房用の放熱器(図9)に年代が感じられました。
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注7)図1・2は、前掲注2)『近代建築史』より転載。校舎名称は、図2によ る。
グロピウス以後
ワイマール校がデッサウに移転するのは、保守内閣の圧力により、1924年末に閉鎖されたためです(前掲注2)。グロピウスは1928年に校長を退き、2代目校長にハンネス・マイヤーが就任します。マイヤーの合目的性・経済性などを重視する手腕は、国際的にも評価され、バウハウスのデザイン活動も活発になります。一方、共産主義者マイヤーは1930年に解任され、バウハウスも右翼勢力から敵視されるなか、ミース・ファン・デル・ローエが校長に就任しますが、1932年に閉鎖されベルリンに移転、翌33年、ミースによって解散されました。ワイマール校の設立から14年、デザイン界に大きな影響を与えたバウハウスは、消滅しました。なお、ミースは、デッサウ校の校長時にチューゲントハット邸(1930年)、フランスではル・ビュジェが、同年、サヴォア荘を発表し、デッソウ校同様、近代建築(モダニズム)の普及が窺われます。
閑話休題
①デッソウ校の学生宿舎のバルコニー(図10)。を印刷した年賀状を出したところ、知人から、「あの素敵なバルコニーは、どこのマンション」と聞かれて、説明に困ったことがありました。やはり、モダニズムは健在です。
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②フランクフルト空港へ行くまでのわずかな時間を利用して、マインツ市庁舎周辺を歩きました。屈曲した大理石の白い壁面が美しい建築です(図11、1973年)。設計はアルネ・ヤコブセン(1902~1971年)ですが、逝去後の完成と思われます。市庁舎から市街へ通じるモールは、近接する建築物と屈折する歩道により変化のある空間が構成され、歩くのが楽しい街でした(図12)。
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次回は、コルビュジェ、ミースの作品を紹介します。