大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-08南御堂門前町
■御堂筋の町並み
近世大坂の町並みや住居の詳細を知るには、『摂津名所図会』では限界があります。それは『名所図会』ですから、取り上げられた名所、例えば南御堂(図1)では、境内の諸施設の名称や様相、敷地周囲の石垣、御堂筋に面する四足門やなまこ壁の土蔵(□で表示)などが詳しく描かれていますが、町並みは、屋根や外観が省略されているため雰囲気が窺える程度です。
図1
その中で図の左手、北久宝寺通り(江戸時代には上難波町)に面する町家だけは、「小橋屋呉服店」と店名が記されています。間口の広い商家で、屋根は瓦葺き、階高の低いつし2階建て、虫籠窓[むしこまど]が設けられ、その隣には、通りに妻面を見せた土蔵が描かれています。ほかには店名の記載が見当たりませんので、よほど繁昌し、「名所」になっていたと思われます。
大坂では、道幅が広い東西方向の主要な道路を「通り」、南北方向の狭い道路を「筋」とよんでいましたが、図1では御堂筋も広く描かれています。「御堂筋」とは、元来、南・北御堂前の道路に限って用いられた呼称ですが、御堂筋に面する町はどのような町並みだったのでしょうか。
北御堂から南御堂までの「八丁」(約800m)は、幕末には人形店が軒を連ね、市中はもとより、近郷・近在、遠国からも多くの人が訪れ、「其繁昌[はんじゃう]いひも尽しがたし」(『摂津名所図会大成』)という有様でした。現在の松屋町筋のように、様々な人形店が集まっていたのでしょう。また、「小橋屋呉服店」は、『図会』が刊行された寛政10年(1798)の頃の景観ですが、『浪華の賑ひ』(安政2年=1855)には「常に買客間断なし」、さらに明治中期にも「名高き小橋屋の呉服店あり」(『大阪市中近傍案内』明治21年=1888)と紹介され、幕末社会の変動期の乗り越え、90年余にわたって繁昌しているさまが窺えます。
一方、南御堂の門前から北久太郎町通りにかけては、毎朝花作りの農夫が花市を開いていたようです(宮本又次『船場』)。となると、南御堂門前の家屋は御堂の参詣者に花や仏具などを供する商家だったのではないかと想像が広がります。このように、御堂筋に面する町には多くの商家が軒を連ね、門前町を形成していたと言えますが、住居の具体的な様相は不明です。ところが幸いなことに、南御堂前の御堂筋に面した区域の住居群の絵図が残されています。その内容を見てみましょう(注1)。
注1)岸田繁高、植松清志、渡辺勝彦「大阪難波御堂表の住居群の構成について」(日本建築学会計画系論文集 第76巻 第666号 2011年8月)
■絵図を読む
絵図の場所は、難波御堂(南御堂)前の御堂筋、南久太郎町通りと北側の御前小路に面した区域(図2)で、住居が13(A~O)、土蔵(G・H)が2棟設けられていました(図3)。その詳細が図4です(図3の表記にそろえて、各住居の境を太線で示し、各戸にA~Oの記号をつけています)。
図2
図3
図4
●住居群の構成●
図4に描かれた住居は、御堂筋・南久太郎町通り・御前小路に面する表家、南久太郎町通りに面する路地の奥に位置する裏家に区別できます。
1)表家
表家は、御堂筋に面する住居A~F、南久太郎町通りに面する住居N・O、御前小路に面する住居I・Jとの計10戸です。これらの住居の庭(灰色で表示)に着目すると、その平面は、入口から奥まで庭が通る通り庭型、入口と奥に庭がある切り庭型、入口のみに庭がある前庭型に分けられます。前庭型は、表家に1戸、裏家に3戸見られます。
(1)通り庭型(A~E、I、N)
通り庭型のうち住居A~Eは、御堂筋に入口を設け、入口の脇には「揚店」(バッタリ床几ともいう)や「コシ」(格子)(図5)が設けられており、商家と考えられます。
図5
部屋の配置は、通り庭に面して店・中の間・座敷の3室で、通り庭は、「中戸」で店と奥に仕切られています。中の間には2階への上がり口があります。階高の低いつし2階建てであったと思われます。座敷には押入や仏壇、床のほか、縁側・空地が付属し、奥の通り庭には、「走り」(洗い場)、「ヘツイ」(竈)、「風呂」などが備えられています。
(2)切り庭型(O、J)
切庭型のうち住居Oは、南久太郎町通りに入口を設け、入口脇に「揚店」「コシ」がある商家ですが、間口がせまく、通り庭が設けられていません。
御前小路に面する住居Jは、入口脇に「揚店」や「コシ」がないことから、専用住居と考えられます。部屋は2室で、奥の庭に「ヘツイ」や「走り」が備えられています。間口が3.5間あることから、元は通り庭型であったものを、途中の「二帖」部分を床上げした可能性も考えられます。
2)裏家
住居K・L・Mは、南久太郎町通りに面する路地の奥に位置する前庭型住居で、部屋数は2室です。表家に比べて狭く、「ヘツイ」、「走り」がないものもあり、風呂もなく、概ね便所・井戸は共同でした。
●通りとロウジ●
1)通り
南久太郎通りの西端から東を見ると、まず住居Aの妻面の壁、次いで間口のせまい住居Oの入口、さらに住居Nの入口、そして裏家への入口である「ロウジ」(路地)が設けられていて、通りに対してやや閉じた状態になっています。この区域の主な商家(A~F)は、御堂筋に面して入口を設けていますが、このことは、御堂筋に面する他の町の商家にも言えることで、御堂筋の門前町は、「通り」に入口を設けることが多い他の町とは様相が異なっていたようです。
2)ロウジ
南久太郎通りと御前小路の東端に設けられた「ロウジ」は、双方が繋がらず、行き止まりになっています。また、表家の背後をみると、住居C・D・Eには「ナヤ」「土蔵」があり、住居Aと住居B・Oの背後には囲われた「空地」があります。このように、表家の背後が複雑に入り組んでいるのは、各家が背後の空間を取り込んだ結果によるものと推測されます。
一方、東端の路地が繋がり、裏家の敷地を周回できるように描かれた絵図があります。その路地の形態が図4の青線区画(水色で表示)です。これを見ると、例えば、通り庭型の住居A~Eは、間口が異なるものの奥行きがそろっています。これらの住居は、背後の路地を自宅に取り込んで「エン」・「空地」を設け、さらに、路地を仕切って便所を設け、共同の空地にしたと思われます。元来、裏家の敷地は路地で周回できていましたが、表家に取り込まれ、周回も通り抜けもできない、閉鎖的で窮屈な空間に変貌したのです。
●作成年代と作成者●
図4には、「御堂表御借家惣絵図壬申九月十八日調之」との記載があります。作成時期の「壬申」は、種々の検討から明治5年(1872)と考えられます。
作成者は、南御堂の出入り大工古橋太郎兵衛です。古橋家は、大坂に23組あった大工組のうち10番組の役職を勤めた家柄で、天保14年(1843)には、「南久太郎町五丁目龍野屋庄七借屋山本屋太郎兵衛」として、この付近に居住していたことが確認されます。さて、家主が誰かも気になるところですが、絵図に記載はありません。ただ、古橋家が南御堂の出入り大工であることを考慮すると、施主は南御堂、家主(大家)は南御堂関連の人物であろうと推測されます。
■区域のその後
この区域は、明治時代から御堂筋が拡幅される昭和初期まで地震や火災などに罹災していませんので、これらの住居群は継続してきたと考えられます。大正13(1924)年の地図では、この区域、特に御堂筋前の建物は3棟の町家のように描かれていますが(図6)、図4の住居A~Eの住居境は単線で描かれ、壁を共有していると見られることから、長屋形式であった可能性も捨てきれません。
図6
ところで、明治5年時点で図4のように裏家の路地が表家に浸食されていたとすると、浸食される前、すなわち周回できた路地があった(換言すると、この借家群が建築された)のは明治5年以前、つまり江戸時代末期と考えられます。そして、表家が裏の路地を侵食して規模を拡張し、昭和初期まで商売を続けてきたのです。当時の賑わいが窺える図があります(図7『写真集おおさか100年』)。
図7
図7は、南久太郎町通りの南側、北久宝寺町通り付近から御堂筋の北側を見た風景です。図から、図1同様の石垣上に建つなまこ壁の土蔵、現実の御堂筋の道路幅が分かります。これらの町並みと賑わいは、御堂筋の拡張とともに消滅しました。
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