台湾の近代建築-台湾総督府--地域のお宝さがし-66

所在地:台北市

■台湾総督府(現中華民国総督府)■
●総督府営繕課●

 前回まで、コンペに挑戦を続けた建築家大原芳知を紹介しましたが、入選者の居住地を見ると、例えば、大連駅舎コンペ(大正13年[1924])の1等入選者小林良治は、満鉄本社(以下満鉄)に勤務し(注1)、大連に居住しています。齊藤報恩会館コンペ(昭和4年[1929])の佳作入選者荒木榮一は、森山松之助事務所の勤務ですが(注2)、明治40年~同44年(1907~11)までは満鉄に勤務し、その後、渡台したようです。そして、野村一郎とともに、台湾総督府博物館(現国立台湾博物館、大正2年)を設計しています(注3)。
 野村(明治元年生)は、明治37年から10年間にわたり、台湾総督府の営繕課長を務めていることから(注4)、荒木(明治20年生、注5)は営繕課員で、野村課長のもとで博物館の実施設計を担当したと推測されます。
 森山(明治3年生、図1、注6)は、明治30年帝国大学工科大学を卒業し、明治39年に営繕課に就職するので、野村とは同世代ですが野村の部下です。

図1

図1 森山松之助

 森山の営繕課における初仕事は、台北市電話交換局(明治42年)の設計で、台湾で最初の全鉄筋コンクリート造の建築物です(注7)。なお、荒木は、年齢的にも森山の部下と思われます。
 営繕課の活動は、台湾の近代化に大きな役割を果たしますが、その代表が台湾総督府(以下総督府)の建設で、森山が実施設計を担当しました。森山は、総督府竣工後、大正10年に営繕課を辞し、大正11年東京で建築事務所を開設します。荒木は、大正13年5月に日本建築士会に入会していることから、想像をたくましくすると、森山の帰朝時に営繕課を辞し、森山の事務所に勤務したと推測されます。

注1)小林・荒木(後述)ともに、西澤康彦『海を渡った日本人建築家』              (彰国社、1996年)。
注2)『社団法人日本建築士会会員録』(昭和2年7月調)。
注3)第62回でこの記述の出典を、Wikipedia「国立台湾博物館」としまし               たが、「台北の近代建築めぐり(2)」の誤りです。ここで訂正しま             す。
注4)西澤泰彦『東アジアの日本人建築家』p24~25(柏書房、2011年)。
注5)野村・荒木の生年などは、「二十五年間に於ける会員一覧表」(『日             本建築士』昭和16年10月号所収)。
注6)森山の生年・経歴は、『復刻版近代建築画譜』(不二出版、2007                   年)、巻末「森山松之助建築事務所」。図1は、Wikipedia「森山松               之助」より転載。東京での事務所開設年は、「台湾日本人物語13」            (産経新聞、2020年9月16日)。昭和16年10月号所収)。
注7)丸山雅子監修『日本近代建築家列伝』p134~136(鹿島出版会、2017             年)。森山に関する事項で、断らない記述は同書による。

●総督府コンペ●
 総督府庁舎は、明治41年、わが国初の本格コンペとして設計案が募集されました。募集は2段階方式で行われ、第1次応募案の審査(略図[1/200]・仕様概略)で10名以内を選抜し(賞金1,000円)、入選者からの第2次応募案の審査(図面[1/100]・
詳細図・仕様など)で、甲・乙・丙賞(賞金3万円・1.5万円・5,000円)の3案を選出する方法でした(注8)。
 結果は、甲賞は該当無し、乙賞に長野宇平治、丙賞に片岡安が選出されました。なお、審査員は、辰野金吾(東京帝大名誉教授)、片山東熊(宮内省内匠頭)・妻木頼黄(大蔵省臨時建築部技師)、塚本靖(東京帝大教授)・伊東忠太(東京帝大教授)・長野半平(総督府土木局長)・野村一郎(前掲)(注9)です。
 乙賞入選の長野(慶応3年[1867]生、図2)は、明治23年、帝国大学工科大学入学、同級生に三橋四郎、塚本靖、大倉喜三郎などがいます(注10)。

図2

図2 長野宇平治

 在学中は、「デザインと図面の巧さは群を抜いていた」といいます。設計に際し、辰野金吾は、「ゴシック式を禁じルネサンス式を良としたが、長野は厳格なクラシック式より奇抜で奔放なゴシック式をやりたかった」そうです。明治26年卒業後、横浜税関嘱託を経て、明治27年8月奈良県嘱託となり、「奈良県庁及県会議事堂」(明治28年)を設計します(図3、注11)。

図3

図3 奈良県庁及県会議事堂

 「和風を折衷した洋館たるべし」との条件に、「軸組や外壁は洋風だが、屋根に日本建築特有の妻破風を用いて和風を強調したファサード」を提案しました。明治30年11月日本銀行技師となります。
 図4は、長野の古典主義意匠による銀行建築の例です。

図4

図4 六十八銀行奈良支店(現南都銀行本店、大正15年)

注8)近江榮『建築設計競技』p36(鹿島出版会、1986年)。同コンペに関             する事項で、断らない記述は同書による。図5(後掲)は同書より転              載。
注9)片山の所属は「国法迎賓館の設計者、片山東熊の引責子孫の記事一                 覧」、片山以外は、前掲注2)『東アジアの日本人建築家』p26。
注10)前掲注7)『日本近代建築家列伝』p101~105。長野に関する事項                 で、断らない記述は同書による。図2は、『近代建築史図集新訂版』              より転載。
注11)「建物-奈良県立図書情報館」奈良県庁より転載。

■入選案■
 長野案(図5)は、「様式的な骨格を残しつつ、部分において種々の簡略化がなされた、いわゆるフリー・クラシック」による設計です(注8)。ここで言う「フリー・クラシック」は、細部が簡略された様式建築と思われます。

図5

図5 長野案

 外観は左右対称で、両側の壁面は、両端と中央部の壁面より一段張り出し、最下層の基壇上に、2~3層を一体化した半円アーチの開口部、その上に長方形の開口部が設けられた3層構成です。正面の車寄せは中央部の壁面から突出し、煉瓦と白色の石材が用いられ、中央部の壁面は、上部の塔壁面と同一面になっています。
 外壁に赤煉瓦、開口部周りなどに白色の石材などを用いる意匠は、辰野が好んで用いたことから、後に「辰野式」と呼ばれる様式で(注12)、長野案が「辰野式」を意匠に採用していることが窺われます。

注12) 西澤泰彦『植民地建築紀行』p26(吉川弘文館、2011年)。入選案意              匠などに関する事項で、断らない記述は同書による。

■実施案■
 実施案(図6・7)は、営繕課の森山が担当し、大正8年に竣工しました。

図6

図6 台湾総督府全景(現況)

図7

図7 台湾総督府正面細部(現況)

 長野案と異なるのは、中央の塔の位置と高さで、位置は後方に移り、高さは地上から塔の頂部まで約60mと高くなり、さらに、正面車寄せの両端部にオーダーを一対にしたペア・コラム、両端の壁面頂部にペディメント(破風)、さらにその上部に方形屋根が設けられるなど、装飾が施され、煉瓦と石材の白色があいまって、華やかで威厳のある外観になっています。
 「辰野式」は、19世紀のイギリスで流行したクイーン・アン様式を基調に、「ペディメントや円柱を付して建物を飾っていく」様式で、「フリー・クラシックと呼ぶ」そうです。前出の「フリー・クラシック」は、細部が簡略化された様式建築を示していましたが、ここでは、装飾が豊かな「辰野式」を「フリー・クラシック」と定義しており、この用語には相反する意味のあることが分かります。
 そう言えば、随分以前に初めて訪れた盛岡市で、盛岡銀行本店(図8)を見たときに、「辰野金吾だ!」と直感した覚えがあります。
 装飾を抑えた端正な意匠の一部に「辰野式」を用いた長野案は、実施案ではペディメントが付加され、「正面両端を強調する「辰野式」本来の外観になった」と評されています。一方で、「赤煉瓦に白い石で横縞を入れる辰野式を基調としながら、過多な装飾を施す」森山の作風は、「赤をラッキーカラーとし万事派手好きな台湾人の趣味や南国の風土に調和している。」(注7)とも評価されています。

図8

図8 現岩手銀行赤レンガ館(明治44年、重要文化財)

■閑話休題■
 敗戦により総督府は国民党政府に接収され、現在は中華民国総統府庁舎として使用されています。ボディチェックを受けて中に入ると、外観同様に内部も美しく維持されていました。案内のボランティアのおじいさんが、流暢な日本語で、建物の良さや、当時の日本人技術者の優秀さを解説してくれました。

次回は、新竹駅舎を紹介します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?