豪華客船をデザインした建築家達 -地域のお宝さがし-78
■豪華客船の室内装飾■
わが国における客船の室内装飾(インテリアデザイン、以下デザイン)は、昭和初期までは主にヨーロッパに発注していました。ところが、昭和4年にサンフランシスコ航路に就航し、「太平洋の女王」と愛称された日本郵船の「浅間丸」では、上級船客用の公室であるラウンジ(社交室)・食堂・喫煙室などにはイギリスの様式が採用されましたが、それ以外の特別客室などには、日本風のデザインが採用されており、技術と経験の蓄積が窺われます(図1、注1)。昭和5年以降は、海外への発注が減少します。
注1)図は断らない限り、『豪華客船インテリア画集』(以下『画集』、ア テネ書房、1986年)より転載。図1の設計は大阪高島屋。「図版解 説」の〔注〕に、「古代日本様式の特別客室計画案。ほぼこの通り実 現している。」とある。なお、船名には、「」を付す(以下同じ)。
●デザインの傾向●
日本郵船 日本郵船は、多くの外国人乗客を獲得するため、デザインは、「外国人の見慣れた西洋の古典様式で設計させるのが無難」と考えていたようです(注2)。これは欧州航路の場合と思われますが、サンフランシスコ航路では、「ヨーロッパ・スタイルながらややモダンな傾向」、南米航路では「日本的な様式」(p133)と、航路によってその傾向が異なっていたようです。
大阪商船 大阪商船は、近海航路の客船で、「欧米船の影響から抜け出た独自」のデザインを模索していました。その契機が、中村順平が担当した長城丸です。「長城丸」(昭和2年、2,594トン)(注3)は、大連航路に就航する3隻客船のうちの1隻で、岩崎小彌太の紹介によって中村順平が「和風」で設計し(図2)、他の2隻が、「洋風」・「中国風」(注4)と様式が混在しているのは、大正から昭和初期の傾向と言えます(注5)。
注2)『画集』p126。以下、断らない記述は同書により、引用には頁数を付 記する。
3)「長城丸」。
4)網戸武夫『情念の幾何学』p251(以下『情念』、建築知識、1985 年)。図2は同書より転載。
5)織田茜衣他「戦前における日本の客船インテリアの特徴」。
■現代日本様式■
長城丸の「和風」は、中村順平が提唱した「世界に通用する近代日本調」すなわち、「近代主義を基盤に、日本の美的感覚を十分に活かした」(p141)デザインで、大阪商船工務部長和辻春樹と中村は、新造船計画でこの「現代日本様式」を推進します。和辻・中村による「現代日本様式」は、南米航路の「ぶえのすあいれす丸」(9,626トン)・「りおでじゃねいろ丸」、大連航路の「うらる丸」(6,377トン)・「うすりい丸」(昭和4年)、台湾航路の「高千穂丸」(昭和9年、8,154トン)、大連航路の「熱河丸」(6,783トン)・「吉林丸」(昭和10年)などと(注6)、確実に拡がりを見せます。
民間人の飛行機による移動が困難な時代、長期間滞在する客船の「現代日本様式」によるデザインは、日本文化の啓蒙にも大きく寄与したと推察されます。このような、「現代日本様式」普及の要因として、昭和初期まで外国人観光客用のホテルを建設してきたこと、さらに外国航路船の規模が拡大したことにより、増大する外国人の受皿として、各地に建設された「国際観光ホテル」の存在も掲げられます(注7)。
注6)客船の総トン数は、「中村順平が設計した船内装飾設計一覧表」(海 老名熱実「中村順平『スケッチブック』資料における船内装飾(客船 インテリア)の設計資料について」所収)による。なお、年代は、同 論文・『画集』・「履歴2」(第77回掲載)で異なる場合があるが、 ここでは『画集』に従う。
7)第41回「琵琶湖ホテル」。
●「あるぜんちな丸(12,755トン、姉妹船ぶらじる丸)●
昭和13年2月、南米航路の「あるぜんちな丸」が建造されるころは、客船の「現代日本様式」は広く定着していました。旅客施設の見所は、上級船客用のラウンジ・食堂・喫煙室などです。「ぶらじる丸」の1等ラウンジは中村順平(図3)、1等食堂は村野籐吾(図4)、1等喫煙室は松田軍平(図5)の3人の建築家が担当しました。
村野は後年、「中村と共に船内設計にあたった折、中村担当の丁場で偶々顔を合わせることがあった。村野はそこに見た中村の芸に対する厳しい気迫に押され、敬服の念を禁ずることができなかった」と語っていますが(注8)、それは「あるぜんちな丸」か「ぶらじる丸」と推察されます。
建築家の本格的な参画は両船が初めてで、以後、建築家が客船のデザインに携わるようになります。
注8)『情念』p99。
●「新田丸(17,150トン、姉妹船八幡丸・春日丸)●
昭和14年、日本郵船が「優秀船建造助成施設」の補助金交付をうけて、欧州航路に就航させる3隻が建造されます。
公室は「現代日本様式」により、中村に委嘱されますが(図6)、優秀船3隻となると公室の数が多く、中村1人が短期間に行うことは不可能でした。中村は、受注者の三菱長崎造船所から建築事務所の紹介を依頼され、デザイン能力のある卒業生が勤務する山下寿郎設計事務所や松田平田設計事務所を紹介して仕事の分担を計ります(注9)。
このような豪華客船の建造について、「外国人を乗せて外貨を稼ぐのだ」と、内田百閒は語っています(注10)。しかし、昭和11年に第二次ロンドン海軍軍縮会議を脱退したわが国は、艦隊の拡張のため、「優秀船建造助成施設」の補助により、有事の際に徴用可能な大型客船の建造を進めることになり、外貨を稼ぐのは困難になっていきます。
注9)ただし、『画集』(p141)の設計欄、「図版解説」(p167)にも両 事務所の記載は無く、担当箇所は不明。
10)ウィキペディア「新田丸級貨客船」。
●「橿原丸(27,700トン、姉妹船出雲丸)●
昭和15年、日本郵船が「大型優秀船建造助成施設」の補助金交付をうけて、サンフランシスコ航路に就航させる2隻が建造されます。
その設計にあたり、日本郵船はインテリア設計委員会を設け(委員長岸田日出刀東大教授)、設計者に「中村順平、山下寿郎、松田軍平、久米権九郎、前川國男」(p128)、村野籐吾・吉武東里・岡本馨等が指名されました。中村は、「橿原丸」の1ラウンジを担当しています(図7)。また、「出雲丸」を担当する建築家には、村野籐吾・本野精吾・渡辺仁・雪野元吉・久米権九郎代理、「久米事務所には図書室と娯楽室が割当てられることが決定した」とあり、建築家個人というより、建築事務所が請け負ったことが窺われます(注11)。
注11)『情念』p259。同書の「橿原丸」担当者には、「松田軍平」ではな く、「松田・平田」とあり、「建築事務所が動員された」との記載か ら、両船ともに建築事務所としての参画が推察される。
■豪華客船をデザインした建築家■
このように、デザイン担当した建築家が多く登場しますが、担当箇所が判明するのは僅かです。「出雲丸」の図書室を担当した久米権九郎は、「橿原丸」でも図書室を担当しています(図8)。中村の国際連盟会館コンペの応募作品を手伝った岡本馨は1等特別食堂(図9)、吉武東里は1等入口広間(図10)、前川國男は1等プール(図11)を担当しています。
本野精吾は、大正2年の「サンフランシスコ万博に、日本政府から出陳する工芸や彫刻の陳列ケースと、場内に備える机、椅子のコンクール」に、中村と同じく二等に入選(注12)、渡辺仁は、昭和6年東京帝室博物館コンペで1等に入選しています(注13)。錚々たる建築家が参画していたことが分かります。
注12)『情念』p89。
13)近江榮『建築設計競技』p279。
■閑話休題■
『画集』巻末「図版解説」にある、興味深い〔注〕を幾つか紹介します。
・図3「ぶらじる丸1等ラウンジ」:「新材料、新工法を取入れた斬新で豪 奢なインテリアが見ものである。」
・図6「八幡丸1等読書室」:「壁面には頼山陽等の漢詞文字をレリーフに した装飾パネルを飾っている。」
・図7「橿原丸1等ラウンジ」:「本図は、建築家中村順平氏が自ら描き上 げた計画案。(中略)空母に変更されたため実現せず。」
・図11「橿原丸1等プ-ル」:「斬新すぎるデザインとのことで採用案にな らなかったと伝えられている。」戦前にモダニズム建築を推進した前川國 男のデザインも、客船には「斬新すぎる」と評価されました。しかし、イ ンテリア設計委員長の岸田日出刀は、モダニズムに理解を示す建築家でし たので、「斬新すぎる」と評価したのは誰なのか、気になるところです。
これらの豪華客船の多くが空母などに改装されて、その大半が姿を消したのは残念ことです。