旧赤阪小学校講堂②-地域のお宝さがし-24
前回は、旧赤阪小学校講堂の建築年、移築元などに関する説のうち、A・B説を検討し、以下のことが分かりました。
【A説・B説検討の結果】
①建築年:講堂の建築年代は、明治20年(1887)頃と思われる。
②移築元:A説の堀川小学校は堀川尋常小学校であった。
B説の堀川尋常小学校は、明治30年頃綿屋町にあり、大工町になかった。
③所在地:明治30年頃に大工町にあったのは盈進高等小学校で、同校は明治42年7月31日の「北の大火」後に復興され、第一盈進高等小学校と改称され7月31日の「北の大火」後に復興され、第一盈進高等小学校と改称されるが、大正14年(1925)に廃校、その跡地に堀川尋常小学校が移転し、その際に校名が堀川尋常高等小学校と改称された(注1)。
今回は、C説を以下に再掲し、検討します。
C『総覧』説:「旧府立大阪尋常中学校、昭和4年(1929)千早赤阪に移築転用」(注2)、建築年は明治44年としています。出典から、『総覧』説とします(以下C説と略記)。
【C説の検討】
①建築年:明治44年、つまり「北の大火」後の建築としています。
②移築元:旧府立大阪尋常中学校(現北野高校)。北野高校は、明治6年に南御堂内に創立された欧学校に始まります。教育制度の変革などを経て、同16年に府立大阪中学校となり、旧中津藩大坂蔵屋敷が校舎として用いられます(北区堂島浜三丁目、当時)。ちなみにこの屋敷で、天保5年(1834)12月10日に、福沢諭吉が生まれています(注3)。
注1)前回、堀川尋常高等小学校への改称の記載漏れがあった。
2)『新版日本近代建築総覧』(日本建築学会、1983年)西暦は筆者加筆。
3)『北野百年史』(1973年)北野高校に関する記述や図は同書による。
府立大阪中学校は、明治19年に大阪府尋常中学校と改称されるとともに、同地で新校舎に建て替えられ、同22年に落成しました。新校舎は、2階建て、切妻屋根・瓦葺き、正面2階に三角屋根(ペディメント)、その左右に2本の柱を並立させたベランダが設けられた洋風建築です(図1)。
図1
この校舎は、明治35年に大阪府尋常中学校が北区北野芝田町(当時)に新築移転するまで、増築されながら使用されています。移転後の跡地には、中之島高等女学校(現大手前高校)が入りますが、同42年の「北の大火」に罹災します。焼け残った校舎は、阪急曽根駅付近の小学校へ移築されました。ここでも、校舎が周辺地域に移築される例がみられます。
大阪府尋常中学校は、北野芝田町への移転に際し北野中学校と改称されます。新築された校舎は、木造2階建て、寄棟屋根・瓦葺きの和風建築です(図2)。
図2
この後、北野中学校は昭和6年に東淀川区十三(当時)に移転します。芝田町の校舎は、吹田の山田小学校へ移され、昭和38年(1963)に鉄筋コンクリート造校舎に建て替えられるまで、60余年にわたって存続しました(図3)。
図3
【C説検討の結果】
①建築年:明治22年・同35年に建築されたのは、小学校ではなく中学校であった。
②移築元:大阪尋常中学校は、明治35年に北野中学校と改称されたため、明治44年には存在しない。
■3説検討の結果■
C説は堀川小学校とは無関係。A説の堀川(尋常)小学校は、講堂が建築されたと推測される明治20年頃には綿屋町にあったので、これも無関係。
これらから、B説の「北の大火」後に復興された、第一盈進高等小学校の校舎が講堂の本籍と考えられる。
【堀川尋常高等小学校校舎】
図4は、第一盈進高等小学校(跡地に堀川尋常高等小学校が移転)の校舎です(注3)。これと図5を比較してみると、屋根は寄棟屋根・瓦葺き、下見板張り、玄関階段の両脇に台座が配され、2本の並立するオーダーは、中央部をアーチで装飾した腰壁が囲繞するベランダを支え、背後の四箇所の竪長窓と上部のペディメントを擬した装飾など、意匠上の共通点が多く、図5は堀川尋常高等小学校の玄関であることが分かります。
図4
図5
注3)『大阪市立堀川小学校創立百周年記念誌』(1973年)。
図面の作成者は、赤阪村への移築を担当した建築家池田谷久吉氏です。池田谷氏は、大正6年市立大阪工業学校(現大阪市立都島工業高校)を卒業、同15年に池田谷建築事務所を開設し、昭和30年代まで関西を中心に設計活動をしました。現存作品としては、池田谷自邸(登録文化財)、岸和田城、金光教玉水教会(登録文化財)、観心寺恩賜講堂(重要文化財)などがあります。
池田谷氏は、移築に際し校舎平面図(図6)や講堂の立面図(図7)のほか、基礎伏図・小屋伏図などの図面を作成しており、移築に際して周到な準備をしたことが窺えます。図7は講堂と同様の形態で、移築前の外観であることが分かります。
図6
図7
●新築か●
さて、「北の大火」後に復興された第一盈進高等小学校の校舎は、新築なのか、移築なのか、気になるところです。例えば、『北區誌』(1955年)には、「四十二年の大火に罹災したので翌四十三年、・・大工町に校舎が新築された」とありますが、
①資材はどうするのか 新築するとなると、大量の資材が必要になります。罹災地域が復興の資材を必要としている時期、集まるのだろうか。
②工期が気になる 大火の発生は7月31日です。翌年4月の新学期に間に合わせるとなると約8ヶ月。夏休み明けとすると約1年3ヶ月。年内として、約1年6ヶ月。果たしてこの工期で新築校舎が完成できるのだろうか。
③設計者の意気込み 新築となると設計者が存在します。当時の建築(特に洋風建築)は、概ね建築様式に基づいて設計されますが、新たな校舎を設計するのに20年も前の建築様式で設計するだろうか、と疑問はつきません。
●移築か●
①移築期間 堀川尋常小学校の赤阪村への移築期間は、地鎮祭を含めて約1年4ヶ月です(注4)。近くの校舎を解体・移送するならば、工期が短縮されるのではないでしょうか。
②建築年代 講堂は建築様式的に明治20年頃と考えられています。移築ならば、復興校舎が明治20年頃の建築であっても矛盾はしません。
注4)『千早赤阪村立赤阪小学校百周年記念誌』(1999年)
●筆者は●
ということから、筆者は移築であろうと考えています。当時、都市周辺地域においても就学児童が増加しており、その対応として都市部から校舎を移築する例が多いのに、その逆、すなわち、周辺地域からの移築は考えられません。となると、大阪市内、それもこの付近で、明治20年頃に創立され、併合などにより廃校になり、そして大火に罹災していない校舎が移築されたのではないかと夢想しています。そんな、上手い具合に良い物件があるかと言われれば、それまでですが・・・・。
それはさておき、次回は赤阪小学校への移築などをみます。
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