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決して言ってはいけない言葉だけれど、あえて息子が使うことを許した…。

言葉は刃物
とよく言いますが
自分に向けられた
思いも寄らない言葉に
傷付いた経験は
多かれ少なかれ
誰にでもあると
思います。

時には
それが深い傷となり
長年の苦しみとなることも
あるでしょう。

『死ね』

この言葉を
自分に向けられたことが
一度だけありました。

それは
小学6年生の時でした。

私が通っていた
小学校の音楽室には
古いピアノが何台かありました。

その中の1台は
教室の後ろの方にあって
ほとんど使われることが
ありませんでした。

そのピアノの後ろには
子どもが入れるくらいの
隙間があって
そこにすっぽり隠れて
友達とおしゃべりを
楽しむことがありました。

ある日のこと。
そのピアノの裏側に
私の悪口が
書かれていると
仲良しの友達が
教えてくれました。


6ー2 なおみ しね


友達から聞いた時は
ショックでしたが、
実際に
自分の目で
その文字を確かめた時は
さらにショックでした。

何か固い物で
傷を付けたような
少し読み辛い文字では
ありましたが、
どう見てもそれは

6ー2 なおみ しね

でした。

生まれて初めて
自分に向けられた
『しね』の文字

『しね』
と言われることは
こんなにも
辛いものなのだと
その時思い知りました。

その後
誰が書いたのか
どうしても気になって
今思えば
本当に馬鹿げているのですが
何人かに
聞いてみたのです。

でも、
当然、本人が
名乗り出るはずも無く…。

幸いにも
ピアノの裏の悪口以外の
嫌がらせはありませんでした。

そのことは
未解決のまま
ずっと、
私の心の中に
残り続けました。


息子には、
何かの折に
「お母さんは今でも
忘れられなくて、
とても傷付いてる。
だから、
決して人に言っては
いけない言葉だよ」
と話しました。


息子が
3年生くらいの時
だったと思います。

こんなことがありました。

その日
学校から帰宅した息子は
怒りに震えながら
泣いていました。

一点を見つめて
何やらずっと呟いています。

死ね死ね死ね死ね…

普段は
そんな言葉は
口にしない息子。

よほど
嫌なことがあったのだろう 
と思いました。

「どうしたの?」
と聞いても
死ね死ねと呟くだけでした。

私はそれ以上
聞くのはやめ、
黙って
息子の背中を
さすりました。

抱きしめようにも
体に力が入っていて
私に身を委ねてきません。

相変わらず
一点を見つめ
死ね死ね死ね死ね
と呟き続ける息子。

死ね
そんな言葉を言う
息子の姿を見るのは
とても辛いことでした。

死ね
なんて言っていけない…。

でも、
今は
そんなことよりも
もっと大切なことがある
そう思いました。

一向に治まらない
息子の怒り。

ふと、
以前本で読んだ
怒りの浄化の仕方を
思い出しました。

私は息子に
白い紙を渡し、
紙いっぱいに
『しね』と
書くようにすすめました。

上から下まで、
とにかくぎっしり
その文字で埋め尽くすように。

息子は
言われた通り、
死ね死ねと呟きながら
平仮名で『しね』と
書き続けました。

やがて
紙は『しね』の文字で
いっぱいになりました。

書いているうちに
息子の怒りは
少しおさまったようでした。

私はその紙を丸め
息子と一緒に
大きな灰皿の上に
置きました。

そして、

「この紙を燃やすと
○○の中の
怒ってる気持ちや
悲しい気持ちが
一緒に燃えてなくなるからね」

そう話し
それに
火をつけました。

紙は勢いよく燃え
あっと言う間に
灰になりました。

息子は少し驚いたように
その様子を見ていましたが、
灰になった紙を見つめる
その表情には、
さっきまでの
怒りも悲しみも
見られませんでした。

「またいつか
物凄く辛いことあったら
こうして
お母さんと一緒に
嫌な気持ちを
燃やしてしまおうね。
一人ではしないでね。
火事になると怖いから」

そう言って
終わりました。

何があったのか
尋ねることはしませんでした。

息子も
理由を話そうとは
しませんでした。

その後
いつも通りに
おやつを食べ
元気になりました。
 
結局、その後も
その日のことは
分からないままでした。

もしかしたら
本当に
些細なことだったのかも
しれません。

それでも、
その時の息子には
受け止め切れない
大きな苦しみだったのでしょう。

それからは
このようなことはなく、
息子と一緒に
この儀式をしたのは
あの日だけでした。


『死ね』に纏わる
2つのエピソードが
頭の中で行ったり来たり…

そのうち、
ふと
こんなことを
思いました。

6ー2 なおみ しね

これを書いた子は
私が放った言動に
深く傷付いたのだろうか…。
あるいは、
生理的に私を
受け付けなかった…?
私の存在が鼻についた…?

いずれにしても
その人が
ピアノの裏に
文字を彫ったことで
息子のように
気持ちが楽になったのだとしたら…
もしそうだとしたら、
それはそれで良かった…。

誰の目にもつかない所で
やってもらえたら
一番良かったのだけれど
こうでもしないと
その人の気持ちは
治まらなかったのだろう…。

私の目に触れる
可能性も考えて
あえてここに彫った…。
そのことで、
気持ちが
すっきりしたのかもしれない。

それに、
悪口を書かれたこと以外
他にひどいことをされた訳でも
なかったのだから…。

これぐらいのことで
済んで良かったんだ…

そんな風に思いました。

そう思ったら
私の中の悲しみが
すっーと消えていきました。


言葉は刃物になる

だからこそ、
相手に向ける言葉は
慎重に選ぶ必要が
あると思います。

それでも、
何かをきっかけに
怒りが爆発して
言葉を選ぶどころでは
なくなることもあるでしょう。

そんな時
誰にも知られないように
人に向けてはいけない
言葉を吐き出す…
それはそれで
良いのではないかと
私は思います。

これについては
いやいや
どんなことがあっても
死ねなんて
言ってはいけないのです!
ましてや
子どもにすすめるなんて
言語道断!
という方もおられるかも
しれませんね。

これについては
きっと
それぞれ
考えをお持ちでしょう。


さて、
人生には
思いも寄らないことが
起こるもの。

息子が泣いて帰宅し
死ね死ねと呟いている
それとて
思いも寄らないことと言えば
思いも寄らないことでした。

子育てをしていれば
場合によっては
うちの子に限って…
というような事が
起こらないとも限りません。

万引きをした
人に怪我をさせた
誰かをいじめた
警察のお世話になった…

そんな時に
厳しく叱ることで
ことの重大性を
分からせることも
あるでしょうし
行為の善し悪しよりも
そのようなことをした
背景に思いを寄せる
ということもあるでしょう。

その時々で
親の判断も様々、
正にケースバイケース。

そして、
何が正解かは
誰にも分からない…。

そう言えば
息子が幼稚園の時
園のおもちゃ(ミニカー)を
こっそり
持ち帰って来た時が
ありました。
その時は
厳しく叱りました。

私自身のことで言えば、
7歳の時に
家出をして
警察のお世話になったことが
あります。

私の両親は
きっと今でも
なぜ私が家出をしたか
分からないと思います。

その時の両親は
私のした行為
そのものに目を向け、
怒り、悲しみ
落胆していましたから。

なぜ、
私が家出をしたのか

本当はそこに
目を向けて欲しかった…

でも、
この問題は
私の中で
もう既に解決しています。
だから
もういいのです。


子育てに
正解はありません。

だからこそ
今、目の前にいるその子を
しっかり見ていくしか
ないのだと思います。

そこに
答えがある…
そんな風に思います。

それが
正しかったかどうかが
分かるのは
5年後、10年後かもしれないし、
もっと先かもしれません。
もしかしたら
分からないまま
なのかもしれません。

大きな問題が起きず、
親子関係が良好なのであれば、
それは正解と思っても
良いのではないかと
思いますが…

皆さんは
どうお考えですか。

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