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不安を煽るのではなく、喜びで繋がる共同体として。

信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
新約聖書 使徒言行録 2章44-47節(新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

私は学校で働く牧師です。
でもたとえば美容院とかで「ご職業は?」なんて聞かれると、とりあえず「学校教員です」と答えます。その方が話が通りやすいから。
で、「担当している教科は?」なんて聞かれて初めて、「実は私が働くのはキリスト教の学校で、そこでは聖書科という教科があってですね……」といった感じの展開になって、自分の立ち位置をもう少し丁寧にお伝えすることになります。

「教会だけじゃなく、学校や病院で働く牧師もいるよね~」と分かってもらえている世の中であればまた違うんでしょうけれど、今んとこ「聖書科」という教科名でも分かってもらいにくいことも多々あるので、まあ仕方ありません。
何しろ日本のキリスト教は、人口の約1%と言われていますから、まごうかたなき「少数派」です。

少数派であるということは、「その実態について知る人が少ない」ということでもあります。

今これを読んでくださっている皆さんは、キリスト教会に行ったことがある人でしょうか、無い人でしょうか。
人口比から考えたら、「教会には行ったことが無い」という人がほとんどのはずですが、検索とかでたどり着いてくださった方が多ければ、聖書に親しみがある人だったりするかもしれませんね。

前回の記事で「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」について触れました。

(あ、記事の最後に書いていた学期末の大仕事は無事やっつけましたよ! あとは来週のウ・ヨンウ最新話を楽しみに待つのみです(^^))

ウ・ヨンウの名前がハングルでは「上から読んでも下から読んでも同じ」、いわゆる回文であること。ウ・ヨンウがそれと同じようなワード(例:トマト、スイス……)を並べて自己紹介することなどをちらりとご紹介しました。

回文といえば、すごく印象的な回文がひとつあります。
「来て聞いて 悔いて出て行く 定期的(きてきいてくいてでていくていきてき)」
……すごくないですか、これ?! こちらの本に出て来るんです。

コピーライター土屋耕一さんによる回文の数々が集められた一冊、『軽い機敏な仔猫何匹いるか』。
その中に「教会」という見出しの項目があって、この「来て聞いて 悔いて出て行く 定期的」が収められています。
初めてこれを読んだ時、回文としての完成度に「すごーい!」と感心すると同時に、「そっかぁ、『悔いて出て行く』イメージなのかぁ…」と軽いショックを覚えたのでした。

先述の通り、日本のクリスチャンは人口の1%前後。だとすると、「キリスト教会」という場所に対するイメージとして、99%(のうちの大半の人たち?)は「悔いて出て行く(出て来る)場所、それが教会」と思っているのかもしれない。……果たして教会は、礼拝は、「悔いて出て行く所」という認識でいいのかな? そんなことを考えてしまいました。 

勝手な推測ですが、「キリスト教会=懺悔」の印象って強いんですかね? それで「悔いる、反省する」というイメージが出て来るのかなぁ、なんて想像しましたが、どうでしょうか。

確かにキリスト教会において、「悔いる」ということはひとつの大きな要素ではあります。
聖書の言葉に耳を傾け、それを通して自分を見詰め直し、自らの罪や弱さを思って涙する。それが大事にされているのは事実です。
でも、教会で「悔いる」とだけ言うことは、ほとんど無いようにも思います。むしろよく使うのは、「悔い改める」という言葉です。
つまり「悔いる」ところで留まるのではなく、「悔いたことに対して、どのように改めていくか」という「新たな歩み出し」こそが実は大事にされているのだと思うのです。

キリスト(救い主)であるイエスについても、「私たちの罪を背負って十字架で死なれた」というのは、外すことのできない大切な信仰です。
けれども、このイエスとて「死んで終わり」ではないのです。「復活」そして「再臨」という、未来志向の部分を持つのが、キリスト教信仰です。

冒頭で引用したのは、ごくごく初期のキリスト教会の様子を描いた部分です。
「心を一つにして」「喜びと真心をもって一緒に食事をし」「神を賛美していた」ことによって人々から「好意を寄せられる」教会の姿。
教会において「悔いる」ことが大切なひとつの要素であったとしても、それはあくまで「ひとつの」であって、基本はやはり「喜び」を共にする希望の共同体であって欲しい。そうである、と言いたい。

今この社会で「宗教」というものが不信の目で見られそうな流れを感じています。ですが本来の宗教というものは、人を恐怖や不安で囲い込み「悔いる」ことだけを要求するものではなく、「悔い改め」の先にある喜びと希望を分かち合うものであるはずです。
そのような希望の風を感じてくださる方が一人でも多く与えられるよう、キリスト教会も努めていかねばならないな、と思います。
私も、このような駄文を通してではありますが、その一端を担っていきたいと願います。


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