「空気を読む」のではなく「呼吸を合わせる」のがいいなぁ
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
新約聖書 マルコによる福音書5章25-30節 (新共同訳)
こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員として働く牧師です。
「空気を読む」という言葉があります。この言葉が以前から何となく、あまり好きではありません。
確かに「空気」としか言いようのない雰囲気というものはあります。また、自らの言動をそれに合わせてコントロールできれば、余計な摩擦や衝突は避けられるし、「悪目立ち」せずに済むのだろうなぁということは分かっています。事実、私も「空気を読んで」その場で言いたかったことを控えたり、周囲に合わせて主張を引っ込めたりすることがあります。いわゆる「大人」の振る舞いとして、ある程度こういうことが必要だというのにも頷けます。
ですが「空気を読む」という言葉は、多くの場合自発的な振る舞い以上に「無言の強要」として用いられる気がします。私がこの言葉にしっくり来ない理由の一つは、たぶんここにあります。「少しは空気を読めよ」「あいつは空気が読めていない」などと言う時、私たちは相手に「お前の主張を引っ込めろ」と静かに脅迫しているのではないでしょうか。
空気を読まないと、無用のトラブルを引き起こしてしまうことも分かりますし、空気を読むことで場が和み円滑に話が進むことも知っています。その上でやっぱり、「空気を読め」と言われることに対しては「異質なものへの強制的な封じ込め」のように思われて、何か不健全なものを感じてしまうのです。
とは言え、「空気を読まない」人がどうしても周囲と衝突してしまって傷付くことを目にすると、「うーん、やっぱり空気を読むべきなのかなぁ」と思ってしまうのも事実。
難しいなぁ、どうするのが良いのかなぁ……と思っていたところ、今日の帰り道でふとひらめく出来事がありました。
私は自転車通勤をしています。歩道や路側帯で反対方向に進む歩行者や自転車とすれ違う時、何となくお互いの目線や仕草で「私はこっちに避けますね」「あ、じゃあ私はこちらへ」「いいです、ここで私が一旦停止しますから先に行ってください」というような無言のやり取りを感じます。
これってお互いに「空気を読んでいる」ってこと? いや、何か違う……。そんな「空気を読めよ」という強要は感じない……、あ、分かった、これは「呼吸」だ!! そうひらめいたのです。
「空気を読む」と「呼吸を合わせる」、似ているようですが、大きな違いは「相手の出方を封じようとするか、尊重しようとするか」にあります。
「空気を読め」と言う場合、「私が先に進もうとしてるんだから、『空気を読んで』あなたは止まりなさいよ」と、こちらの都合が先行します。一方「呼吸を合わせる」場合、「あなたが止まってくださるようなので、私が急いで先に行かせてもらいますから、少しお待ちくださいね」というような「やり取り」があります。「あなたがお急ぎならこちらが避けるか一息止まるかしますよ」という別の選択肢がある。その中で「せーの」でお互いにとって益となる判断を出し合う。そんな気がしました。
冒頭の聖句は、私にとって思い入れのある聖句のうちの一つ。
女性の出血は穢れとされた当時、その病に長く苦しんでいた女性は、「空気を読まず」に掟を破って、藁にも縋る思いでイエスの傍に寄って来ます。そしてイエスの服の端にそっと手を伸ばすのです。「この方の服にでも触れれば、癒していただける」。そんな彼女の切実な思いに対し、「自分の内から力が出て行った」と感じて、押し合いへし合いする群衆の中でイエスは立ち止まり、振り返ります。
「空気を読む」のが大切なら、この女性は出て来ることさえできなかったでしょうし、イエスもまた立ち止まってはならなかったはずです。今は群衆の求めに応じて、別の患者への癒しを行うため、先を急ぐべきだったのですから。でも、彼女は手を伸ばしたし、イエスは立ち止まって振り返った。
勝手な想像ですが、イエスの服に触れ、癒しが訪れたことを悟った瞬間、彼女ははっと息を呑んだのではないでしょうか。そしてその微かな驚きと感動の呼吸を、イエスは察知された。
「空気を読まない」というのは決して傍若無人に振る舞うことではなくて、大勢に流されてしまわないこと、このような「一人の相手」と向き合う感受性を鈍らせないことを指すのだと思うのです。
相手の呼吸に耳を澄ませ、その微かな震えを窺おうとする時、私たちの間には「隣人愛」に似た何かが生まれているのではないか。
大勢の群衆の「空気」にではなく、最も小さくされている一人の小さな呼吸を聴き、それに応えられる者でありたいと思ったのでした。