ならぬことはならぬもの。戦争反対。
こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。
大河ドラマで、山本/新島八重を取り上げた「八重の桜」という作品がありました。
第1回のタイトルが「ならぬことはならぬ」となっています。これは会津藩の武士の子どもたちに伝わる「什の掟」の中の文言です。「什の掟」では武士の子としてしてはならない戒めが挙げられ、最後にこの「ならぬことはならぬものです」という言葉でまとめられています。
言い訳や理屈など通用しない、させない、絶対にやってはいけないことが、私たちには、ある。
「ならぬことはならぬ」とは、そういう意味だと思います。
この言葉に基づいて今強く思うこと。
それは、戦争というのは、どうしたって「ならぬこと」だということです。
政治的な立場や、外交的な戦略などを挙げ、「仕方ない部分もある」と言うスタンスもあります。この戦争を機に大きなお金が動くことをもって、経済的な効果に注目する見方もあります。「やはり軍事力を持たないと侵略される」などと、対岸の火事を見ながら自国の状況に苦言を呈する向きもあります。
でも、そのどれに対しても私は、首を縦には振りたくありません。
「ならぬことはならぬものです」。
そこに傷付けられている人がいる。そこに傷付け合うことを強いられている人がいる。そのこと自体が、どうあろうと「ならぬこと」です。どんな理由があろうと、人と人とが血を流し合うことを認めて良い論理など無いと思います。
正しい戦争も、良い戦争も、無い。
21世紀にもなって、私たちは未だにこのような愚かな営みに対してそれを止めることができずにいます。情けなく悲しいことです。私自身も、一体何ができるのか、自分は何から始めればいいのか分からず、うろたえるだけで、本当に不甲斐ない思いです。
どうか神さま、私たちが知恵を寄せ合って、こんな愚かな状況を一刻も早く終息させることができますように導いてください。どうか神さま、傷付いた人を慰め、傷付けようとする人の振る舞いを留め、傷付く人がこれ以上増えないように守ってください。
「祈る、誓う」ということについてイエスが教えられた言葉を冒頭に挙げました。ですが、これは「誓い」に留まらず、私たちに突き刺さる短くも鋭い言葉であると思います。
「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
「いや、でもこういう観点から言えばね」なんて、かしこぶって分かったような顔をして、「ならぬこと」を肯定してはいけません。ならぬことはならぬものです。ただ「否」と言わねばなりません。
「戦争反対なんて言ったって、何もできないくせに」と言われるかもしれませんが、祈ることはできます。「戦争反対なんて言ったって、万一攻め込まれたらどうするんだ」と言われるかもしれませんが、攻め合うことの無い世の中を作るために考え続けることはできます。
「ならぬこと」とは何かをしっかりと考え、それを見失わないようにしましょう。「ならぬこと」には「ならぬ」と言える素直さを持ち続けましょう。「ならぬこと」を退けられるよう、共に声を上げ、連帯して歩みましょう。「ならぬこと」をしてきてしまった私たちの歴史をもしっかりと省み、その過ちを悔い、許しを乞い、それを繰り返さずに済むよう知恵を求めていきましょう。