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「何もできない」夏休みこそ、神さまの恵みを感じられるかも。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
新約聖書 マタイによる福音書 6章26節 (新共同訳)
こんにちは、キリスト教学校の聖書科教員をしています、くどちんです。牧師です。
子どもの感受性に倣いたい……という記事を前回書いたのですが。
聖書解釈において、「生徒さんを見習いたい」と思うことがあります。
私が働くのはキリスト教学校ですが、生徒さんの大半は「ノンクリスチャン」、キリスト教徒ではない人たちです。その分、彼らの教会や聖書に向ける眼差しは新鮮です。キリスト教の文化、文脈に慣れ親しんだ者なら何の疑問にも感じないようなところに疑問を感じ、「ベテランクリスチャン(?)」には思いもかけない斬新な聖書解釈をレポートに書き綴ってくれることがあります。私としては、そのフレッシュな視点が自分自身の養いにもなるので、いつも大変興味深くレポートを読ませてもらっています。さあ、どうせどこにも行けない夏休み、この間にレポートの「採点の祭典」を頑張るぞ……と自分を追い込んでおいて。(自虐クドウ)
生徒の「直球ど真ん中」の受け止め方に、思わず笑いそうになったり、「いや待てよ」と逆に考え込んだり。「果たして自分は聖書の言葉を、これほど素直に読んだことがあっただろうか」と自問したり。
聖書を深く読み解くためには、学問的視点ももちろん大事です。(私はあんまり学問的な人間ではないですが……)(自虐クドウ再び) でも私もその中高生のように、一度素直に聖書の言葉を受け止め、実践してみてもいいんじゃないか、とも思うのでした。
生徒さんに触発されて、私も冒頭の聖句「空の鳥をよく見なさい」を「本当に」実践してみたことがあります。
「空の鳥をよく見た」こと、ありますか? 「いい大人」はあんまりやらないかもしれませんね。私は夕方、まだ空に少し明るさが残る帰り道でこれを実践しました。そこで何が起こったか。
……首が「ばきばきっ」と言いました。肩が凝っていたのですね。
「首を動かして見上げる」などという動作は日頃ほとんどやっていなかったのだなと気付きました。いつも俯きがちか、パソコンの画面を覗き込んでいるか。
「空の鳥」を見上げるためには「立ち止まらなければならない」ことにも気付きました。少なくとも歩を緩めるなどしなければなりません。すき間の時間にはスマホを覗き込むのが常の世の中で、「立ち止まって」「空を見上げる」なんてまずありませんよね。聖書をそのまま実践してみたことで、「私はいつも”何か”をしていたのだな」とも気付かされました。何もしなくて良いはずの時間にも、ニュースやメールのチェックをしたり、調べ物をしたり、わざわざ用事を作っていたのですね。そのくせ、それが後のゆとりに繋がったわけでもなく、先には先でまた何かしらせかせかしているのがほとんどです。
しかも空の鳥って、「見上げて」すぐ目に入るものでもないのです。目を上げたら絶妙なタイミングで鳥が飛んでいた、ということは、私の住む町ではごく稀です。「空の鳥をよく見よう」と思ったら、「今のうちに」とやろうとしていたことの手を止め、「仕事の先取り」にならない、ある種の「無意味」な時間を作らなければならない。しかし私がそのような時間を日頃積極的に持とうとしているかと問われれば、答えはノーです。
いつも俯いて、いつも何かに気を取られて、「何もしていない時間」を持てない私。「空の鳥をよく見なさい」という言葉は、私の日頃のこのような姿をあぶり出してくれたのでした。
でももしかしたら、本当に空の鳥をよく見るような、「無意味」とさえ思われる時間の中でこそ、私たちは「今生きていること自体への喜び」や「神を想う心」を持つことができるのかもしれません。日常の雑事、あるいは生産性や合理性から切り離された「無意味なひと時」に、ぽかーんと自分を解放してやること。それによって、忙しく「心を亡くす」のではなく、「神に活かされてある今」に心を向けることできるのでしょう。
分かりやすい成果を挙げられなくても、報酬を生むような働きができていなくても、「私が今、神によってここに生かされている。それ自体がすでに大きな喜び、恵みである」。そのように思えたら、私たちは自らが挫折した時にも、自分の存在を否定せずに済むかもしれません。また、社会の中で弱く小さくされている人たちに対しても、排除ではなく、共生の思いを持って手を携えていくことができるかもしれません。「私が、あなたが、今、ここにいること」。それ自体が、すでに大きな、神の恵みであるということ。
夏休みに入り、ほっと一息ついています。学期中は本当にバタバタしていて、家のことも子どものこともほったらかしの部分が多くて、そんな自分を責めがちな日々でもありました。
この夏休みは私にとって研修も出張も無く(リモート研修はあるけど)、かと言って旅行に行けるわけでもない、前代未聞の不思議な日々です。何となくくさくさしがちな気もしますが、こんな「何もしない、何もできない時間」を通して、私たちは自身を見詰め直し、「真の自己肯定」を与えてくださる主の声を聴くのかもしれませんね。
あ、でも「採点の祭典」があるんやったか。わーあ、そうだった(泣)。それはそれで喜びを持って頑張りますね……。またレポートから示唆をいただけるかもしれないしね。