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思い入れがあったはずの本を手放す時

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
旧約聖書 コヘレトの言葉3章1-8節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

先日、ふと思い付いて本棚を整理してみました。今回整理したのは、漫画や、料理本や、これまで観劇したお芝居のパンフレットなど、どちらかというと「固くない」本ばかり集めた本棚。
2年前、世の中全体が一斉に「お休み」になったあの時期、家の中で引きこもる生活だった時に一度盛大に整理した記憶がある本棚。
最近は子どもが成長してきて、私や夫が昔集めた漫画を読んだりもするので、「そろそろこの辺も読めるだろう、手前に並べといてやるか~」みたいな気持ちで始めた今回の整理。

手をつけてみて驚いたのは、「前回、なんでこれを処分しなかったんだろう?」と思ってしまうものがいくつもあったことでした。

以前整理した時には「これはやっぱり手放せないな……」と思って大事に取ってあった漫画や昔観劇したお芝居のパンフレットなんかが、今回「これはもういいや」と、とても穏やかな心で「処分用」に仕分けできたのでした。なんだろう、流し雛を川にそっと浮かべるような気持ちで。やったことはないんだけど(笑)

「モノ」としての価値は、大して変わっていないはず。でもやっぱり「その時」というのがあるんだろうな、と思います。

どうしても欲しい、と心燃える時。
良いものを手に入れた、と喜びに満ちる時。
大切に取っておこう、としみじみ愛着を感じる時。
手放したくないな、と存在を惜しむ時。
もうさよならしても大丈夫、と吹っ切れる時。

振り返ると、昔の私は「気持ちが変わる」ということを否定的に捉えていました。
「愛している」ものが「愛していた」ものになる。そういう心の移ろいを恐れていました。
「愛していた」という、過去形、完了形のようなものになった瞬間、かつて抱いた「愛している」という思いがニセモノだったということになってしまいそうで、過去の自分を否定したくなくて、「大丈夫、まだ『愛している』」としがみつくようにしていたことも多くあった気がします。

でも今は、「変わることって自然なこと」「変わることは悪いことではない」「変わったからとて、かつてあったことが否定されるわけではない」と思えるようになりました。
考えてみれば当たり前のことなんですけどね。

花が咲いていた時だけが真実なのではない。花がしおれた後も、「かつて花が咲いた」という事実は変わらない。その「かつて花が咲いた」ということが確かにあったからこそ、それに続いて「実がなる」という異なった形が生まれてくるわけです。「花」という、そこにあった尊さは、「実」という新しい別の形に結ばれていく。それだけです。

冒頭に引用したのは、旧約聖書「コヘレトの言葉」の中の有名な一節。
「この箇所が好き」と仰る方は私の周りに結構いて、私はそれがいまひとつピンと来ず、「この箇所、そんなに良いかなぁ?」と思ったりしていたのですが(笑) きっとそれは私の人生経験の浅さだったのですね。今なら何となく分かる気がします。
「諸行無常」という言葉があります。この言葉を単に寂しいこと、移ろう人間の惨めさとして受け取るのではなく、「そういう変わりゆくところも含めて人間」というような、一段大きなところからの包容力として味わう。そんな眼差しがあるのかな、などと思います。

変わっていっても、かつてあった思いは変わらない。感じたこと、愛したことに変わりはない。その時の思いが確かにあったからこそ、またそれとは違うものを抱いた新しい私に変わっていける。

変わってしまった、かつての自分も全部どこかに内包しながら、年を重ねて古びていくようでいて、どんどん新しくなるのが人間なのかな、なんてことを思いました。

さーて、では「その他の積読本をそのままにしている私」はいつ変わるのかな(^_^;)?


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