時空を超えて、言葉よ届け。
こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。
先日発売された雑誌『明日の友』(257号)に、エッセイを寄稿しました。
編集の方が、私のかつての礼拝メッセージをご覧になって、そこからこのnoteまでお読みくださり、原稿のご依頼をくださったという次第でした。
きっかけになった礼拝メッセージというのはこちら。大学のチャペルでお話した、「あなたはマルタ派? マリア派?」というタイトルの奨励です。
もう10年も前に語ったこのメッセージ、不思議といろいろな方から反響をいただいてきました。皆さんこのマルタとマリアの物語に対しては分かったような分からないようなモヤモヤしたものを感じておられたのかも。私もそうだったので、この時メッセージの準備をしていて自分なりに「そうかー!」と腑に落ちる解釈ができたのが嬉しかったのを覚えています。
すると先日、またしてもこのメッセージを読んだという方からご連絡をいただきました。こちらはなんと中欧のある国にお住まいの芸術家の方。絵や銅版画の作品をもとに、絵本などの創作をされているそうです。その方が、ご自身の個展に際し、このメッセージを彼の地の言葉に訳して並べて展示したい、とお申し出くださったのでした。(また、展示が叶いましたらご報告したいなと思います。)
繰り返しますが、10年も前に語ったメッセージです。これが今年に入って立て続けに、全くお会いしたことのない方から、それもお一人は海を越えて遥か遠くヨーロッパの地から、「あなたのメッセージを読んだよ、心が動いたよ」というレスポンスを運んできてくれたのです。
自分でも思いもよらなかった出来事に、しばし陶然となる程でした。大げさ? いや、クドウごときの人生でこんな言葉をかけていただけることが起きようとは、ほんと、大事件ですよ。(相変わらずの卑屈っぷり)(堪忍)
「10年も経ってるんだから、それ1本で喜んでないで、他にももうちょっとええ話書いてへんのかい!」とのお叱りを受けるかもしれませんが。そしてその点については「まことに不甲斐ないことでございます……」と小さくなって頭を下げるしかないのですが。
ええやん! クドウごときが(また言う)、1本でもそんなん書けたんやったらもう十分やん! いぇーい!(開き直った)
ともあれ、こんな風に見知らぬ方に私の言葉が届き、その方々から私にまた言葉が寄せられる……というのは、ひとえにインターネットの力です。すごいねインターネット。知ってはいたけど、ほんと世界を広げてくれるのね。
私の語った小さな言葉が、時を超え、場所を超えて、誰かの心に届く。
その誰かから、今度は私に対して、「私はこう読んだよ」「こんな力をもらったよ」という嬉しい感想が寄せられ、それがまた私の心を喜びで震わせる。
もしかしたらそれがまた私のエネルギーになって、さらにまた誰かと繋がれるような、ささやかな力になれるような、言葉が生み出せるかもしれない。
そうだったら、いいな。
冒頭に引用したのは、イエスの語ったたとえ話です。
からし種というのは、数ミリ程度の小さな小さな種だそう。マスタードに入っているつぶつぶを思い浮かべるといいですね。
ところがこの種が育つと、背丈を超えるような大きさにまで育って、「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」というのですから、その成長度合いは何百倍……でもすまないな、丈だけでも千倍以上ですよね?
神さまの力は、今の私たちの目にはよく分からないかもしれないけれど、実は大きな力を秘めて近くに蒔かれていて、やがて鳥を宿すほどになる……。一見小さく思われるものであっても、真実なものこそがやがて偉大な結末を迎える。そういうことを示すたとえ話です。
私に蒔ける種は、本当にごくごく小さなものですし、その数もわずかです。さすがに「鳥が巣を作れるほど」にはなれないでしょう。でも、もしかしたら、蝶が羽を休めるほどにはなれるかもしれない。そんなことを思った、ここ最近の出来事でした。
このnoteも、小さな小さな種のひとつです。でも、小さいながらに100粒を超えました。それもこれも、フォローしてくださったり、スキを送ってくださったりと、見えない「言葉」を投げ返していただいているからです。私一人では「種が育つ」ことを信じられず、きっと蒔くのをやめてしまっていたと思います。
今日もここを読んでくださっている皆さん、ありがとうございます。どの程度育つものか分かりませんが、希望を持ってもう少し種蒔きを続けていきたいなと思います。今後ともよろしくお願いいたしますm(__)m