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終わりに見えても、まだ終わりじゃない。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。ヨハネによる福音書/ 11章 41節人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 新約聖書 ヨハネによる福音書11章38-44節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

私の生活圏は今ちょうど桜が満開です。桜が「入学」ではなく「卒業」のイメージの花に変わりましたね。私が子どもの頃はまだ「桜の花びら舞う入学式」みたいな絵面があった気がしますが。

桜の花だけでなく、「卒業」ということと絡んで、花束をいただく機会が多くあり、いつになく花に囲まれた生活です。

いただいた花束を家で花瓶に活け直していたのですが、つぼみの状態だった百合が数日経って花開き、部屋の中で鮮やかに香り始めました。出先から帰って来てリビングに入ると、ぶわっと(匂いの表現としては強過ぎますが、まさにこんな感じでした)百合の匂いが押し寄せてくるようでした。

花束でもらったものなので、我が家に来た時点からそれはすでに切り花で、言い方は悪いけれど「死んだ花」のはずです。それがこんなにも鮮烈な香りを放つということに、はっとさせられました。

「死とは何か」ということについて思いを馳せた……なんて言うと大げさだと思われるかもしれません。けれど、「終わり」というのは何だろうか。私たちが「終わり」と思っているものは本当に終わりなんだろうか。それは実は一筋縄ではいかない、捉えきれない部分もあるものなんじゃないか。そんなことを考えたのです。

私は長らく高校生と「いのち」を巡る授業をしています。その授業では「脳死臓器移植」や「尊厳死」などのテーマも扱います。
○○ができなくなったら、もう生きているとは言えない。○○ができない状態で身体だけ生きていても仕方ないから、それなら生命維持はやめて欲しい。生徒さんたちの多くは、よくそういう感想やコメントを寄せてくれます。その考えはよく分かるし、共感もできます。若く、可能性に満ちた年頃である生徒さんたちにとっては、それは真実な思いなのだろうと理解しています。だから、「その考えは間違いだ」とも言いません。

でも、実は、それはものすごく一面的な価値判断に過ぎない……ということは伝えます。私たちがある状態に対して「これは終わりだ」と断定してしまうのは、私たちの小さな経験、狭い考えの中での判断に過ぎないのだ、ということをわきまえていたいと思うのです。そしてその「わきまえる」ということが、いのちの尊厳の前に立つ者の、最低限の礼儀ではないかと思うのです。

冒頭に引用したのは、イエスがラザロという人物を復活させた奇跡の物語です。聖書にはこのような「死んでいた者が甦る」という話がいくつか出てきます。当のイエス自身もまた、十字架で死んだ後に復活するわけですが。

「復活」ということを言うと、「はいはい、シュウキョウの話ね」という印象で捉えられることが多いと思います。もちろん、「死んだはずの人が甦る」ということは私たちの生活のレベルではあり得ないことですから、そのような「おとぎ話」としての受け取り方を一概に否定することはできません。

ですが、先述の百合の花のように、「私たちの目に『終わり』だと映っているものは、神さまからご覧になれば『終わり』ではないのだ」という希望の物語として読んでみてはどうでしょうか。そこには私たちを活かす力強い「真実」が感じられるのではないでしょうか。

肉体的な死のみならず、私たちは他者に対しても自分自身に対しても、「もう役に立たない」「先が無い」「やめてしまった方が早い」などと、諦めたり手放したりしてしまうことがあります。可能性や希望というものに対して自ら死を宣告してしまうような場面が、しばしばあります。

私自身、「アラフォー」と呼ばれる年頃に差し掛かる辺りから、「もう自分の人生には新しい局面は訪れないのだろうな」と、何となく諦観めいたものを抱くようになってしまっていました。もう先が見えてしまったような気持ちというか、すごろくでいう「あがり」のような気分というか……。

でも、それはすごく一面的な判断でしかなかったな、と、今は思います。自分次第でこれから私もまだまだいろんな挑戦をしていいし、失敗だってしても構わないのですよね。

「死んでいた」はずのラザロが再び墓から出てきたように、「死んでいた」はずの百合の花が強烈な芳香を放ったように、「いや、まだ終わりじゃないのかも!」と、希望を信じて良いのです。

新しいことへの挑戦や、やりたいことへの思いを諦めてしまわず、自分勝手に自分自身を「終わった」ものにしてしまわず、軽やかな足取りで「次」に向かっていきたい。そんな前向きな力を、花の姿からもらった春です。


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