遠隔礼拝あれこれ
また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
新約聖書 コリントの信徒への手紙一 9章21-23節 (新共同訳)
こんにちは、くどちんです。キリスト教学校の聖書科教員で、牧師です。
私の住む地域でも緊急事態宣言が解除されるようです。この緊急事態宣言で今、多くのキリスト教会が「会堂に集まって礼拝する」ことをやめています。
「教会」という言葉の元は、ギリシャ語で「エクレシア」だと言われます。エクレシアは「集会」「集められた者」というような意味合いなので、「集まれなくなった」というのは、教会にとって本質に関わる、割と大きなことです。でも各教会が「物理的に集まれない中で、心と魂を集わせる」ような取り組みをそれぞれに始めてもいて、感心することしきりでした。
これら遠隔礼拝(と仮に呼んでみます)の取り組みについて、それぞれのやり方に長短あるなぁと思ったので、自分なりに整理しておきます。(珍しく長くなりますが、ご興味のある方はお付き合いくださいませ)
◆文書による礼拝/伝道
以前からある形ですね。説教の原稿や要約をお手紙で送る方法。発信する側も受け取る側も、特別な知識や機器が要りませんし、郵便代程度の安価で済みます。FAXやメールならほぼ無料。発信側が直接お届けに行けば、牧会(教会の人たちへの霊的な配慮)訪問も兼ねられます。受け取る側は文書を手元に残せて、自分の都合の良いタイミングで読む、あるいは繰り返し味わうことも可能です。
ですがこれは、住所やメールアドレスを知っている教会員のみが対象となるので、「教会外」への広がりがなく「伝道」(ここでは「教会外」に対する働きかけの意とします)の側面は弱くなります。チラシ(トラクトと呼ばれたりする)形式で広く配布する方法もありますが、効果的かどうか。教会外に配るとなると、内容や言葉遣いに分かりやすさへの配慮(専門用語を避けるとか)が必要となり、教会員向けとのバランスが難しい部分も出てきます。
教会のHPやブログに説教原稿を掲載するという方法もあります。これなら内容に少し配慮すれば、伝道の側面は満たせそうです。その分、「教会員への牧会」は弱まってしまうかもしれませんが。
◆音声による礼拝/伝道
説教録音をCDにして送る方法が一般的でしょうか。発信側には録音機器と、ディスクに焼く手間や技術が必要になります。CDであれば郵送は安価で済みますね。牧師の肉声で聴けるので、教会員にとっても馴染み深く、奏楽も一緒に録音できれば一層礼拝の空気が味わえると思います。文書同様、自分の都合の良いタイミングで聴けますし、繰り返し味わえます。もしスピーカー経由で聴いてくれれば、「教会員外」の同居家族などに聴いてもらえるチャンスがあるかも?
一方、CDを焼く手間が意外と面倒かもしれません。慣れの問題かな? 空きディスクも買わないといけませんね。伝道の面では、上記の通り教会員家族に対する可能性はなきにしもあらずですが、基本的に「教会外」の伝道には向けられていないでしょう。
同じ音声配信でも「教会HPに音声ファイルを置く」という方法なら、CDを焼く手間も郵送する経費もかかりません。それができる技術のある人が教会にいれば、という話にはなりますが。受け取る側も、パソコンやスマホがあれば、特に難しい操作などを必要とせず聴くことができそうです。公開しておけば伝道にも一役買ってくれます。ただし、牧会的な、特定の教会員のことを想定した説教や祈祷は避けなければなりません。限定公開にするなら、パスワード付きなどの手間が必要です。
◆動画配信による礼拝/伝道
YouTubeの限定公開などを使い、礼拝式自体を録画して配信する方法があるようです。動画だと他の方法と比べて、教会に行った時さながらの空気が味わえますね。受け取る側は、メールなどで共有されたURLをクリックするだけで良く、特に難しい機器操作は必要無いでしょう。自分の都合の良いタイミングで繰り返し視聴できます。
ただ録画配信の場合、「日曜の朝礼拝そのものを録画して、午後に編集・アップロード、夕方以降に配信連絡」となると、早くても「夕礼拝」のようなタイミングで視聴することになります。「主日の朝礼拝」というリズムで信仰生活を送るクリスチャンにとっては、「ちょっと出遅れた」という印象もあるそうです。なるほど。早めに収録ができれば良いのでしょうけどね。
動画の難点は受け取る側の通信容量への負担と、長過ぎると間延びしがちなところでしょうか。発信側の懸念は、「録画のための礼拝」だと緊張感に温度差が生まれそうなことかな、と思います。「ライブ感」が無い説教になりそう。牧師の力量次第だと言われれば、そうかもしれません……。限定公開であればやはり「伝道」の要素は薄くなりますね。さらに、録画機器や動画編集など、ある程度機器操作への知識や慣れが要りそうです。
YouTubeで完全公開する場合は、それこそ世界中の人が視聴可能になるので、伝道の要素はかなり高まります。今まで教会に関心を寄せつつ「敷居が高い」と感じていた人も、「様子見」で視聴してくれるかもしれません。交通費も不要ですしね。海外在住の人、遠方に引っ越した人なども「その教会」の礼拝の空気を味わえます。そしていつでも、何度でも視聴可能です。
公開の場合は、やっぱり説教内容や祈祷の言葉への配慮が必要ですね。どんな人が見るか分からないからこそ、どんな人をも傷付けることの無いように。教会員の個人情報の扱いにも注意が必要です。動画が長いことの弊害については、限定公開時と変わりません。それからYouTubeの場合、「評価」を表示させないなどの工夫があっても良いように思います。礼拝に対して「グッド/バッド」の評価を、不特定多数の人がつけることに対する違和感があります。一部の教会員が傷付く可能性もあるので。もちろん、敢えて「評価」を受け入れることで今後に繋げる、というタフな精神を共有できている教会なら別ですが。
発信する側の懸念は、「見せる(魅せる)」礼拝に流れていかない、強靭な精神が要るかも。「フォロワー稼ぎ、リツイート稼ぎ」のようなメンタリティと、丁寧に距離を取る冷静さが求められますよね、きっと。そういう意味で、機器操作もさることながら、「SNS慣れ」したスタンスが無いとやりにくいかもしれません。気になっちゃうもんね、数字。
YouTubeライブだと、録画の場合の懸念であった「緊張感」は保てそうですね。動画が残るので、繰り返し視聴も可能です。ただ、ライブ時の「うっかり(ぽろっと個人名を出しちゃう、とか)」が怖い気がします。
◆ビデオミーティングによる礼拝/伝道
Zoomなどのビデオミーティングシステムを使って、自宅にいながらにしてみんなで同時に礼拝できます。パスワードでセキュリティも守れるので、教会員同士の挨拶や牧会報告(教会内の消息などを連絡する)も安心。この双方向性から言えば「ライブ感」もあるし、「共に礼拝をささげている感」もある。受け取る側が、一番受け身になりにくい方法かもしれません。うまくやれば、遠隔での奏楽奉仕なども取り入れられますし、画面共有を使って、式次第や讃美歌の歌詞、聖書箇所、報告内容などを、音声だけでなく文字で見やすく確認できるのも利点です。受け取る側も割と簡単で、世界中どこにいても、パソコンやスマホでアプリさえ入れられれば視聴可能です。
とはいえ、「インターネットでサイト閲覧/動画視聴」と比べると、「アプリを入れて、IDとPWで入室して、ビデオをオン/オフ、オーディオをオン/オフ」などの操作に難しさや抵抗を感じる人が増えるのは事実です。そうするとYouTube配信以上に、教会員の中で参加可能な人とそうでない人の差が生まれやすくなります。機器操作が苦手な人への丁寧なフォローが必要ですね。また、教会員以外への招待をどこまで許容するかにもよりますが、伝道の要素は弱いです。
……長くなりました。とりあえず思い付くところを並べました。他のご指摘もいろいろあろうかとは思っております。あ、どの形式でも「礼拝時の席上献金が無い」というのは、各教会にとって割と大事な点かもしれませんね……。
当たり前ですが、「どの方法が模範解答だ」なんてことは全く思っておりません。どれをとっても当然一長一短はあります。その教会のメンバー構成、インターネットやパソコンへの理解度、牧会や伝道への目的意識、伝道圏の地域性などによって、「ふさわしい方法」はそれぞれ異なるのだと思います。大切なのは、「誰に寄り添うことを使命として伝道、牧会するのか」という、その教会の「自覚」だと思います。その自覚によって、「何が正解か」は変わります。
ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、律法を持たない人に対しては律法を持たない人のように。相手によって自分のありようを「すり寄らせる」ことで、その相手がより神さまを礼拝「しやすく」なるのなら、それがその伝道・牧会における「正解」だということでしょう。
遠隔礼拝への取り組みは、「私たちの教会は誰を、何を一番大切にしようとしているのか」を、見つめ直させてくれる機会になっているのかもしれません。これからの伝道や牧会にも活かせる部分はあるでしょうね。