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荷物は持っている時だけが重い

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
新約聖書 マタイによる福音書11章28節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

「旅の達人」と呼びたい恩師がいます。
世界中を飛び回っていて、その先生について誰かと話す時には、「今先生どこにいるんだろ?」「今度はマレーシアって言ってたけど」「あれ? こないだヨーロッパにいたよね?」みたいな感じになるような、そんな方です。

この先生が、旅先である若者から言われたというのが、この記事のタイトルにした言葉です。
先生はホステルか何かで一緒になった若者が、あまりに大きな荷物を持っていたので、「重くないの?」と尋ねたそうです。するとその若者が「ずっと持っているわけじゃないし……重いのは持っている時だけだから。」と答えた、と。
宿に着けば荷物は下ろせるし、移動中も乗り物の中なら足元や荷物棚に置いておくこともできる。旅の間ずっと自分でその重さを背負い込んでいるわけじゃない。
先生はそれを聞いて目からウロコが落ちるような思いがした、と仰っていました。

私も近頃は荷物を軽くすることばかり考えています。読まない本でもつい持ち歩いていた以前に比べ、今は荷物がかさばったり重くなったりすることにうんざりしてしまって、できるだけ小さく、できるだけ軽く……ということに躍起になっているところがありました。
でもこの言葉を聞いて、「そうか、ずっと自分で背負わなきゃいけない、しんどいしんどいと思わなくていいんだ」と、私まで目からウロコが落ちたような気持ちになりました。

それからは、心に重くのしかかるような出来事が起こって鬱々した時も、「荷物は背負ってる時だけ重いんだ、一旦くよくよするのをやめよう」なんて思ってちょっと深呼吸できるようにもなりました。
単なる荷物の話だけでなく、心の荷物にもこの言葉が効いたんですね。

冒頭に挙げた聖句は、よく教会の玄関口に掲げられたりしている言葉です。私はひねくれ者なので、「休ませるだけで、重荷をなくしてはくれんのかい(´・ω・`)」などと思っていたのですが(笑)。
今回心の荷物を「一旦下ろす」ということを考えた時に、「重荷をなくせなきゃだめだ」と囚われ過ぎていたことで却って自分をしんどくさせ続けていたのかもしれない、と気付かされました。
重荷をなくせない自分に落胆するのではなくて、一度ほっと息をついて楽になるのがまずは大事なのかもしれない。ちょっと休めば、同じ荷物も軽々持てるくらいに回復するかもしれないし、何なら「これはもう要らないな」と荷物の一部を処分するエネルギーも湧いてくるかもしれない。疲れ切っていると、「要るか要らないか」の判断も難しくなっちゃって、つい「あれもこれも」と抱え込み過ぎちゃうこともありますもんね。

趣味に集中して悩みを忘れるひと時とか、お茶でも飲んで一息つく時間とか、そういうちょっとしたひと休みを軽んじないで、大切に守りながら過ごせたらいいなと思いました。

とか言いながらついついまた抱え込んで、しょっちゅうめり込んでるんですけどね~(^_^;) 人生という「旅の達人」になれる日は遠い……。


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