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私を「見直した」半年間


もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 12章17-20節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。聖書科の教員を15年ほどしています。牧師です。

「自分がやった仕事」って何だろう。これまで私は誰の、何のお役に立てたのだろう。これから私は誰のための、どんな働きができるのだろう。

40歳を前にそんなことを思い巡らすようになって、高校の同級生であり、販促コピーライターとして活躍しつつ、特に女性向けの起業カウンセリングをしている「はたぼう」に個人のカウンセリングを依頼したのが昨年後半。そして時を得て、「はたぼう塾第15期」という少人数形式のセミナーに参加させていただくこととなり、今日がその最終回でした。

↑ はたぼうのHPです。ブログが彼女の人となりをすごく表していて面白いので、ぜひ見てね。

私は起業を志すわけでもなく、売りたい商材があるわけでもないので、はたぼうに相談するのはお門違いかな……と初めは遠慮していました。でも冒頭のもやもやを話すうち、起業でなくても「私が提供できる価値とは何か、どんな人に、どんなものをお届けしたいのか」を考えるのは的外れではないかも、と思うようになりました。それで、「新しい風が入るかも?」と、清水ジャンプの気分で塾に飛び込んでみたのでした。

で、今日が最終回。

結果としては、「一周回って結局『私が何を売りにできるか』はまた分からなくなったような気がするけど、いろんな『おもろいこと』は始まった気がする」です。

不甲斐ない感想ですね。すみません。はたぼうは悪くない。全ては不肖のこの弟子のせい……。でもね、私としては本当に、「いろんな気付き」「いろんな視点」「いろんな姿勢」を知った、学んだ半年間だったのですよ。

まずメンバーがバラエティーに富んでいました。個人情報保護の観点から(?)細かい言及は控えますが、本当に私とはまっっっっったく違うセンスや価値観に触れさせていただきました。私の「商材が無い、これを売りたいという物が無い」という立ち位置に対してさえ、同期生の方からむしろ「それでも良い」という承認をもらったと感じています。

また、私にはしょっちゅう「私なんか誰の役にも立ちはしない」「そもそも自分に何かできるなんて思ってたの?」という「自虐クドウのささやき」が聞こえてくるのですが、はたぼう塾でそういう自分を開示すると、はたぼうは不敵な笑み(褒めてる)で「……ふふっ、そういう人ほど伸びるねん。楽しみ……」なんて言ってくれるのです。(野口さん@ちびまる子ちゃん、みたいだな)

自分にできるかもしれないこと、やってみたらと仲間が勧めてくれること、やってみたら仲間が褒めてくれたこと。そんな一つ一つを拾い集めるように、こうして文章を書いてみたり、落書きのようなイラストを描いてみたりし始めたわけです。

「明確なゴールに達しなきゃいけない」という私の思い込みに対して、今日も仲間から「そんな簡単に見付かるものじゃないだろうし、いろいろやってるうちに後から分かることもあるかも」と新しい風をいただきました。「まとまったものが提示できなきゃいけない」という私の囚われに対して、「自分が楽しい、イヤだなと思うことに、素直になったらいい」と心をほぐしていただきました。「条件が整わなければ何もできない」と二の足を踏む私に、「やってみたい、が全てやん?」と引っ張り出してくれる言葉をかけられました。

「ああ、そんな見方もあるのか」「そんな風に考えてもいいのか」「もっと楽しみながら歩んでみようか」と思い始めることができた、そんな出会いになりました。

「自虐クドウ」が変わったわけではなくて、「自虐クドウでもいいやん」「それもまたアリやん」「むしろそれがおもろいやん」「そんなあなただからできることもあるやん」と教えてもらった気がします。

冒頭の聖句は、キリスト教というグループが歩み出した頃の教会に向けて、パウロという宣教者が手紙を通じて語った言葉です。

私はたぶん、きらきらした目をみて「いいな、美しいな」「私はそんな輝きを持ってないしな」「あんな風に思いを語れるのは素敵だな」と羨んでばかりの団子鼻だったんです。「どうせ私は不格好にぺっちゃりしてるしな」「時々テカってるしな」「最近毛穴も気になるしな」と、自分のカッコ悪いところばかり見て、「他の誰かのようになれない私」を蔑んで、「だから私は何もできていない」と思っていました。

でも、みんながキラキラおめめだったとしても、「それじゃあどこでにおいをかぎますか?」とパウロは問うのです。ぺちゃんこだろうが皮脂が浮いていようが毛穴が目立とうが、私には「においをかぎわける」という大切な役割と実績があったようなのです。

私がにおいをかぎわけることによって、キラキラおめめはきっと、香り高く咲き誇る美しい花や、美味しい料理を見出してくれるでしょう。でもそれは「ぺちゃんこ団子鼻」の私の働きあってこそ、なのかもしれないのです。(この期に及んでそれでも徹底的に自虐的ですが、そこんとこはもうお許しください(笑))

ぺちゃんこなりに、「むむ、いいにおいがしたよ」「わあ、なんてかぐわしい!」「うーん、爽やかな香り。みんなこっち来て~」と、「伝える」役目を務められたらと思います。そんな私を通じてどこかで誰かが、目を輝かせたり、何かを掴み取ったりしてくれるかもしれない。そう願いながら、これからもしばらく私らしく、「キリストの香り」を求めてくんくんしてみようと思います。

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