アボカドの食べ時を逃している。
何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
旧約聖書 コヘレトの言葉 3章1-11節 (新共同訳)
こんにちは。くどちん、こと工藤尚子です。キリスト教学校で聖書科の教員として働く、牧師です。
アラフォーの私が子どもの頃には無かった食べ物が、今や普通にスーパーで売られています。
聖書の話を生徒としていて「オリーブ油」なんて出てきても、中高生の私は「なんだそれ、見たことない」って答えたと思うけれど、今の生徒たちは普通に知っています。説明する必要さえない。
この春の引きこもり生活で、本棚の整理をしていたら、中高時代に買った料理本が出てきました。
この中に「アボカドソース」というのが出てくるのですが、当時の私の生活圏内にアボカドなんてものはありませんでした。「アボカド」という言葉を聞いたことも無かった。若き日の私は「なんだこのおしゃれそうな食べ物は!」と想像を膨らませるばかりだったのです。実際その本にも「アボカドが手に入らない時は……」という注釈付きでタルタルソースっぽいもののレシピが記されており(ゆで卵とマヨネーズがメインだからこれは特に珍しくはない)、アボカドが当時一般的ではなかったことを示しています。
今の私はアボカドが好きです。
アボカド。声に出して読みたい名前。どこに濁点が付くのかいまひとつ不安になるミステリアスな響き。それがアボカド。食べてみると、かつて憧れたあの神秘さに比して、大した癖もありません。とろりとした食感も、大きな種も、薄い黄緑色も、神秘的というよりむしろ牧歌的な印象さえあります。そうすると、「……アボカド」と低音で含みを持たせて発音したかったあの感じが、「あぼかど」とひらがなで呼んでも差し支えないような気になってきます。特に「ぼか」の辺りに何やら裸の大将感さえ漂うような。(「ぼかぁおにぎりが好きなんだな」の一人称のせい)(でもまるっこいフォルムにも通じるものがあるかも)
我が家は生協を利用しているので、大概そこで注文して、週に一回の配達で届けてもらいます。届いたばかりの時はまだ固いアボカド。アボカドはあの柔らかい果肉が身上だと信じているので、届いてすぐは食べ時ではないのです。(個人の感想です)
親切なことに、皮には「食べ頃シール」というものが貼ってあります。「皮がこの色になったら食べ時ですよ」という目安を、そりゃもう一目瞭然で教えてくれているのです。
それなのに。
なぜか私はそのタイミングを逃します。「まだやな」「そろそろやな」と思っているうちに、気付けば「早よ食べな……」と追い立てられるところまで一気に駆け抜けてしまうのです。なぜだ。
「今日あたりは必ず」「あ、また忘れてた、よし明日こそ」「せや、早よ食べなあかんのやった」「しかし今日のメニューでは不要……」
そんなことを繰り返す間に、完全に食べ時を逸するのです。……妖怪のせいなのね?(そうなのね?)
食べ時を逸すると言っても、まあ柔らかくてそれなりにおいしくいただけるんですけれども、筋っぽくなるんですよね。せっかくのまろやかな口当たり中にスジスジした固いものが舌に触るのって、アボカドへの冒瀆な気がして、いつも申し訳ない気持ちになります。ごめんよ、裸の大将……。
アボカドに限らず、「タイミングを逃すことにかけては定評がある」と自分で思っています。いやな定評だなぁ。
「あ、今走れば青信号に間に合うかな。でもまあ赤になっても待てばいいやん。いや待てよ、次のバス何分だったっけ? 今のうちに渡っといた方が良くない? でもなんかちょっと走るには遠いような。いやいやそんな怠けたことを考えずに走ってみろよ。そうだ、走れ!」とか何とかぐるぐる考えてから走り出し、結局渡る直前で赤信号に変わってしまって「ただの走り損」になることもしばしば。「どうせ赤になるなら走っただけ無駄やった……」と落胆2倍。ついでにバスも逃す。
何事においても「様子を見過ぎる」んでしょうかね。慎重なのか、優柔不断なのか。後者か。とほほ。
冒頭に挙げた聖句は「コヘレトの言葉」という旧約聖書の文書からの引用です。哲学や文学の香り漂う散文詩のような文書なので、キリスト教をあまり知らない人にもかえって受けがいいようです。
その中でも割合有名なのがこの言葉。「何事にも時がある」。
著者がこれを楽観的な意味で語っているのか、悲観的なニュアンスで語っているのかは解釈の分かれるところです。ただいずれにせよ、我が身に起こったことを「これは”その時”なんだ」と受け止め直すことでうまく心に収める助けとなってくれそうな言葉です。
アボカドの食べ時を逃してしまう私ですが、その「筋っぽいアボカドを食べる時」もまた、天の下に定められたものなのだ……ということなのかもしれません。(ほんまか?)
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