アートを解釈しようとすることについて考えてみた
話1: 解釈しようとするステップ
あなたが美術館に行ったとき
まず感性がゆり動き、居ても立っても居られない
という状態になったとしよう。
では、美術館を出る。
ゆっくりとあの作品は、ああいうことを伝えたかったのかな
ということを言葉にまとめ出す。
二日が経つ。
あなたの中で、かつて感じた感性の動きなど、
とうに消え去って慣性も失われたのに、
頭の中で言葉をこねくり回して
あの作品がどういう意味だったのかを考え出す。
そのうちに元のアートを矮小した解説や、
あるいは自分自身の出力を眺めて満足してしまう。
これは問題である、と僕は直感的に思った。
前々から僕はアートを見た後に色々解釈したりすることに
ある種の空虚さを感じる。
例えば、僕は映画でもあのシーンはああだとか、実はあの行為は
ああいう意味だとか説明されると何か萎えてしまう。
何が問題となってこういった空虚さを引き起こしているのか、
理由を考えた。
それは次のような理由だ。
あるアートの価値は、そのアートのある場で感じたこと、
(現在)の中にしか宿らないのであるから
これは、アートの前提にも関わる。
例えばアートが単なる情報だとすれば、その場に入って体験する必要はないわけである。モネの絵もネットで無限複製されたjpegとかを見ればいいわけだ。だがそうならないのはやはり私たちがアートを直接目や耳で摂取することをもとめているからではないのか。
話2 : そもそも解釈を与えるとはなんなのか
「解釈を与える」というフレーズから、
連想するに
-解釈は、何かを可能にする
-解釈は上位のものから下位のものに与えるもの
-解釈は、形のないものを形あるものにする
というような「解釈」の性質が浮かぶ。
つまりアートを解釈するとは、
無形であったアートを見たときの感情の動き
有形な言葉、説明、解釈に落とし込む
ということだと言えるのではないか。
僕の考えでは無形なものがより素晴らしくて、守るべきものであるのだが、「解釈を与える」と言った時なにかムッとするのは、
「有形なものにしてわかりやすくしてやりましたよヘッヘッ」
というニュアンスを感じる僕の問題なのかもしれない。
また、それによって確かにアートが「理解可能」になったのかもしれないが、それと「アートを見た時のあなたの状態」って全然別物ですよ、
ということが無視されがちなのが嫌なのかもしれない。
話3:では解釈は無駄か?
そうではない。そうではないはずなのだが、
解釈がアートよりも優れているという場面は、あまり知らない。
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