ある珈琲屋に行った

勤怠管理の一番左の行には青い笑顔のアイコンが並んでいる。
定時退勤のボタンを押し、終業後どこで珈琲を飲むか決めていたのでグーグルマップを見て歩く。あの珈琲屋のロゴはUCCの色彩と全く同じだったと今思い返していて気づいた。赤に白抜きの、布製の張り出しの下から入り口の形であたりに白い灯りが漏れ出していて体が吸い寄せられる気がした。近づくと賑やかな子どもの声が聞こえる。外のベンチでタバコを吸っていた客が帰る。店をやっているのはおばあさんとおじいさんで客はベージュのトレンチコートを着た母と連れてこられた二人の男児だった。僕が見てるから大丈夫と言い張る兄を母がだーめと腕で囲いこんで止めていた。コーヒー?お持ち帰り?とおばあさんが僕に聞く。テイクアウトメニューにはホットコーヒーと水出しコーヒーしかない。水出しがいいですか、というと店主のおばあさんはうん、今はもうそれがおいしいと言ってうちの水出しは世界一だとか今デパートにでているだとかそれは年2回しか出してなくてとかデパートには男の人がたくさん並んでいるだとかもう止まらなかった。水出し珈琲を選ぶと冷蔵庫からペットボトルを取り出して今注いでくるからね、と言い奥に向かう。珈琲を持ってくるのと母親が帰るのが同時で、おばあさんは子供が落ち着くのを待ってから横をすり抜けて僕に珈琲を渡す。珈琲を受け取った僕と、外まで皆が移動する。紙コップのへりに口をつけている僕の座るベンチを子供がおもちゃで叩いていく。こらーとおばあさんが言う。おかあさんいじわーる、おかあーさんだいすーきと自作の歌を歌いながら、えへへと笑っているが手を引かれているのですぐ視界の外へ消えていく。
 僕が珈琲を飲み終わるまでおばあさんは隣で立っていた。おばあさんに僕はずっと質問をされていた。出身地と、この辺に住んでいるのかどうかを3回ずつ聞かれた。飲み終わったコップを渡してもまだお話は終わっていなくて、うちはちょっとずつしか焙煎をしないで、した豆は必ず冷蔵庫に入れる、さっき入り口で見たかい?と自然な流れで店内に再び入っていた。あのね、安いコーヒーはだめよ、コーヒーにもアラビカとロブスタがあってロブスタはもう農薬が怖い、農薬に漬け込んでるから私は飲めないね、あなた真っ黒いコーヒー豆とかを見るかい、あれ油が浮いているでしょうあれはもう酸化してる油でだから安い豆、インスタントとかは飲んじゃだめ、うちのコーヒーは大丈夫。僕はこの辺で家にまだ封を開けていない豆が残っていてそれをまず飲まないと、ということを言って話の流れを変えておいた。それは200g780円で買った豆でおばあさんのいうようにロブスタでもなく真っ黒くもなく極めてきちんとしているのだが、どこで買ったのか聞かれたので、忘れましたと言った。それでもまだおばあさんの話は終わっていなくて、あなたと同じ札幌出身でもう今は越したWくんがここのコーヒーをすごく気に入ってくれていて、今でも豆を送ってるだとか昔大学生で私の四倍くらい大きいRさんが今はアフリカにいてなかなか帰ってこないとか、うちは農場と直接契約してくれる人が生豆を持ってきてくれていて、やっぱりもうちょっと帰ってこれないもんかねとか、でも船の中は大変だし向こうでも農場の人と値段をどうするとか話し合いが色々あるからねえとか独り言みたいに次々今まで会った人たちの話をした。おばあさんが、切れ切れの本で僕はそれを直しているような気分だった。僕はおばあさんが初めて読む本のように重かった。
 おばあさんの顔は見ても黒目がどこにあるのかわからなかった。ちょっと前の「あなたは酸味が好き、それとも苦味が好き」という質問に「酸味」と答えてからおばあさんが悩み始めて、僕はやっとおばあさんが珈琲の小瓶をつらつらと順番に見始めたので待っているとペルーの豆を20gプラスチックの小袋に見繕ってもらえた。それで、やっと帰れた。
 

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