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イタリア語 単語の話(12)

読んで楽しいイタリア語の話
単語で覚えるイタリア語
111.ricevuta (リチェブータ)とfattura (ファッツーラ):“領収証について“
イタリアへ公務で出張される場合は、出張精算のために領収書が必要になります。領収書のことを、ricevutaといいます。ホテルなどでは、ちゃんとした領収書をくれます。これは、fatturaといいます。fatturaの方は、タイプアップしてあり、発行者の税務番号などが書かれており、いわゆる正式な税務申告書としての領収書ということになりますが、一般にレストランやタクシーで発行するものは、手書きのものでこれがricevutaです。ricevutaでも、一応は領収書の形になっていますので、イタリアでは領収書として処理することができます。領収書を要求しても、普通の紙の切れっぱしに、料金だけを書いたものをくれることがあります。こういう誰でも書けるものは、日本でもそうですが正式な領収書にはなりません。こういうのは、bigliettoといいます。ただ、タクシーなどに領収書を求めるときに、ricevutaと言わないで、Biglietto, per favore! と言ってもくれるものは、ricevutaですから bigliettoとricevutaに大きな違いがあるわけではありません。
イタリアでは脱税を防ぐために、商店などではfatturaまたはricevutaの発行を義務付けています。客の方にも貰うことを義務付けています。従い、お店から出たら、誰かに貴方が買ったものの領収書を見せてくれと言われるかもしれません。それは、財務警察かも知れません。もし、貴方が領収書をもらわなかったとしたら、罰せられます。(注意:街の中で貴方に近寄って何か=特にパスポート=を見せてくれと言われた場合、基本的には絶対見せてはいけません。警察だと言ってきたら、まずは疑ってみること。従い財務警察の場合も一旦は疑ってみることです)さて、イタリア語は良く分からないが、イタリアには良く出張する人が、ricevutaのことを、「リッチな豚」だと覚えていました。なるほどこうすると忘れないそうです。じゃ、fatturaは「ファットな虎」ですかね。
 
 
112.semoforo(セマーフォロ)とrotonda(ロトンダ):“赤信号でも右折”が普通“
semaforoは信号のこと、rotondaは信号のない交差点、つまりロータリーのことです。semaforo(信号)は日本と同じで赤は止まらなければならないが、イタリアでは右折車は、そのまま進む。車は右側通行で、運転席は基本的に左側にあるのは日本と反対であるが、交差点では基本的に右側優先という考えがあるので、左から来る車に対して、右にある右折車は優先的に進んで行く。最初は赤信号で右折するのは躊躇するがそのうちバス、タクシー、はてはパトカーまで右折するのを見て、自信がつく(但し、道交法的に許されているのかどうかは分からないので注意!)。なお、赤はrossoだが、青信号はverdeである。良く見ると、あの色は絶対にbluではなく、やはりverdeである。
次に、rotonda。イタリアはかなり渋滞しているイメージがあるが、もし前述の赤信号右折と、このrotondaがなければ、もっと渋滞する事は間違いない。rotondaとは交差点の真ん中に島(isola,普通は小公園)があり、車はその島の周りを回って、右折、直進、左折をする。右側優先なので、右から出てくる車は左を見ないで、rotondaにさっと入って来る。rotondaに入ったら、次はどこかで右折するだけである。つまりrotondaでは左折はない。左へ曲がるのも、右から大きく回り込んで反対側から右に曲がることになる。車は止まることなく、スムーズに流れていく。尚、大きなrotondaには、信号があることがある。パリの凱旋門は巨大なロータリーだ。うまく運転しないと、右側によれず、ロータリーを何周もするハメになる。日本では、全く車が通ってもいないのに赤信号で待たされる信号が多いが、そこで止められるたびにrotondaが懐かしい。もっと採用すれば良いのにと思うのは私だけ??
 
113.sorpassare (ソルパッサーレ): “追い越すのはスピード狂だから?”
「追い越す」ことを言う。イタリアには多くのterme(温泉)があるが、殆どは冷泉であり、湯治場として病気の治療の為にあるのがの普通のようです。Monticatini termeというのが、トスカナ地方にあるが、広大な敷地の中に石像が林立している中になる。一度車で通りかけたことがあるが、イタリアでは「湯治場」「年寄りがいくところ」というイメージがあると言われて、中には入らなかった。Termae Romaeという日本の映画があったが、これはラテン語でローマの風呂という意味である。カラカラ浴場は、Terme di Caracallaという。Monticatiniなども、車だとさっと行けるが、電車だと恐らく大変だろう。結局はタクシーを使うことになる。
ミラノから南に100kmくらいのところに、ゴルフ場があって、日本人会のゴルフがそこで良く行われて参加したことがある。勿論車で行くのだが、そこへ行って帰ると車のヘッドあたりに、たくさんの虫がこびりついている。特に夏~秋にかけてのころだと思うが、イナゴのような昆虫がくっついてくるので、田舎に行くと自然が多いんだなと感じた。フロントガラスに鳥がぶつかってきてびっくりしたこともあった。最近の話だと結構スピードの取り締まりがあるようなことも聞くが、1990年ころには、180kmくらいで飛ばすのは普通だったと思う(私だけではないはず)。私がそれほどスピード狂だったわけではない。私がイタリアに住んで最初に受けたスピードの洗礼は、普通の道路で、時速260kmで運転するイタリア人の車に乗ったことだ。それと、最高速度180kmのディーゼルのベンツで、ミラノからベネチア間約200kmをずっと180kmで運転した車に乗ったこと。自分で車を運転するようになってから、バックミラーにFerrariかPorcheが見えたら、見えた途端にコースを譲らないと、次の瞬間には、真後ろにピッタリつけられているということを知ったこと。イタリアでは、よほどのことがない限り追い越し車線以外では追い越さない。従い、走行車線が空いていても、スピードが速い車は追い越し車線で前の車の後にピッタリ付くことになる。この点は、日本も見習ったら良い。追い越し車線をゆっくり走っていると、追い越す車が蛇行運転をして、事故に繋がりかねない。追い越し車線のことは、corsia di sorpasso という。
 
第十一章 同じものでも日本とイタリアでは違うかもしれない?
日本語としても一般的になった外来語に「バー」とか「ハンカチ」などがあるが、イタリアではちょっと意味が違うかも。辞書を引いても日本語とは一致せず、使う場面が難しい言葉がある。
114.abbastanza (アッバスタンツァ):“十分かまあまあか?” 
外国語の単語を辞書で引くと、普通ひとつの言葉の意味が沢山ある。意味が沢山書かれていても、同じ意味の言い換えなら、ひとつ覚えておけばいいので楽だが、残念ながらそういう訳にはいかないのが外国語学習の難しさでもある。
一般的には、モノならひとつで足りる。例えば「りんご」は、どこでも「りんご」だし、ゴキブリは学術的な言い方は別にして、どこでもゴキブリだ。つまりゴキブリ=cockroach(英語)=scarafaggio(イタリア語)である。
しかし、副詞や形容詞の場合は、そうはいかない。この単語もそのひとつ。abbastanzaは、一般には「十分に」とか「かなり」と、どちらかというと肯定的な意味で使われる副詞だが、「十分に」という意味で使う時には注意が必要である。何故ならこの単語は、ちょっとニュアンスが違う「まあまあ」という意味を持つ。従い、十分良かった、と言ったつもりが、実は「まあまあ良かった」と言っていることになるのだ。
例を挙げると、Ti è piaciuto questo film? (この映画気に入ったかい?)と聞かれて、Abbastanza!(「十分ね」、「かなりね」、というつもりで)と答えようものなら、Perché? Cosa è che non ti è piaciuto? (どうして、何が気にいらなかったの?)と聞かれてしまうことだろう。そこであなたは、「まあまあね」と言った事に気づくことでしょう。日本語で「十分」と「まあまあ」が同じとは思えないのだが、イタリア語での十分は、この場合は八~九分と考えておいた方が良い。一方、Ho mangiato abbastanza. の様な場合は、「私は十分に頂きました」と「十分」が通じる。動詞や使い方によって「十分」か「まあまあ」か判断しなければならないのが難しいところだ。
abbastanzaには動詞があり、bastareというが、これを辞書で見ると、「十分である」「足りる」とある。しかし、正しい訳は後者であろう。つまり、「ある基準の量・質に、足りた=届いた」ということで、足りてはいるが満足ではないということになる。十分おいしいという意味で、Abbastanza buono!と言えば、十分おいしいではなく、「そこそこおいしい」、「まあまあおいしい」、「基準には足りた」ということだ。先に上げた例と同じく、相手にご馳走にでもなって、「十分においしく頂きました」というつもりで、この言葉を使うと、多分変な顔をされることだろう。イタリア語ではそう言いたい場合は、È molto buono(とてもおいしい). Mi è piaciuto molto(とても良かった) と、どちらかと言えば言葉を濁さないではっきりいう事が、誤解を与えないことになるようです。
なんだかイタリア語は面倒くさいなと思わずに、そう思ってしまいましょうね。bastare という動詞は、何かがもう十分な場合(例えば、コーヒーを入れて貰いながら、ハイ、そこで十分だよ、と言って止める時などに)Basta! Basta! と使います。
 
115.bar (バール):”barはイタリアのコンビニ?” 
日本語でバーというと、英語から来たBarを通常連想し、お酒を飲む場所となる。バーというと、昔は大体一杯200円か300円でハイボールや水割りが飲めて、1000円か2000円くらいで勘定が済むところを言い勿論ホステスなどはいない。ホステスやホストがいて、一回行くと一万円くらい取られるところは、クラブといい、高いところはキリがないらしい(行ったことがないので分からないが、似たようなところに紛れ込んだことはある。同じような場所で、友人は16万ほど取られたと言っていたが)。一方、居酒屋と言えば、日本酒か焼酎をのませるところで、イメージとしてはバーよりももっと、云わば、汚い。というのが、40年前のイメージである。以上のイメージはあくまで、40年前のことで、且つ個人の感想です。
さて、barというのは、勿論英語であるが、例えば石鹸を数えるのに a bar of soapという。なぜ、barというのかを説明するのは、若い人には大変だが、石鹸はもともと長い四角い棒の形にしたものを切ったもので、洗濯石鹸はつい最近まで角が丸くない、四角い形をしていた。今でもあるはずだが、若い人は洗濯石鹸と言えば、粉しか知らないというので、説明が難しい。つまり、長い四角い板の事をbarというのだ。また、英語のbarには「法定」の意味がある。法廷小説を読むと、良くbarが出てくるが、この場合は勿論「法廷」とか「弁護士」の意味で使われる。何故、「法廷」をbarというかというと、被告席と裁判官席を分ける手すりの事をそう呼んだかららしい。barというのは、従いbarの客とバーテンダーを仕切るカウンター(木の板)とか、店内のその他の仕切りとか、または、外で馬をつないだ柵のことから、とか諸説がある。
と、ここまで英語の説明でしたが、このコラムはここからイタリア語に入ります。イタリアでのBARは、勿論お酒だけを飲むところではない。と言うより、むしろコーヒーを飲むところですから、英語のbarのイメージはない。日本語で書く場合もバーとは区別して「バール」と書かれる。ここは、大人も子供も入れる。そして、イタリア語では、英語のbarのことをsbarraという。ということは、barは何れにしろ、外来語であって、イタリアでBarと言う名前の店が出来始めたのはやっと19世紀ころのようである。sbarraは、棒、柵、格子などのことを言い、これらは殆ど英語のBarの意味と同じだが、お店だけは英語を取っている。それは、恐らく似たような店が海外に(アメリカ)にあって、それを見て名前を考えからだろうと思う。どうして、Sbarraと呼ばなかったのか?日本のコンビニはアメリカのconvenience storeから取って、日本人得意の省略形にしたのだろうが、これを「便利店」とか「便利ショップ」とか名付けたら、今ほどの発展はなかったのでは?かどうかは、断定はできませんがね。いずれにしろ、イタリアにおいても、英語のBarの方が、粋に感じたのではないでしょうか。また、essere dietro di sbarreと言えば、格子の中にいると言う事で、この格子は鉄格子でつまり、服役中であると言う意味。なお、イギリスでは、barは一般にはワインバーのことで、他の酒を飲む場所はpubと呼ぶ(らしい。酒飲みの方は、入るときにお間違いがないように!)。
 
116.bide (ビデ):“ウオッシュレットはまだない”
washletは、これを書いている今、まだイタリアにはない(少なくとも普及してはいない)ので、多くの人がこの便利なものを知っている訳ではない。どちらかといえば、日本に来た人が、トイレに入って驚くくらいだ。従い、これをイタリア語でなんと言うか、というとbidèというしかない。勿論bidèとは用途も使用法もスタイルも違うのだが。古代ローマ時代から欧州は水洗トイレである。しかし、だからと言ってどこでも水洗である訳ではない。パリのベルサイユ宮殿の庭は、パーティの際に客が庭で用を足すので、大変臭く、そのために香水が流行ったという逸話もある。
今はどうか知らないが、70年代にSiciliaへ行って公衆便所へ入ると、腰かけるふたがない。洋式トイレで腰かけるふたがないと、これは大変技術がいる。返って和式スタイルでしゃがめる方が楽だ。勿論、しゃがむスタイルのトイレはほとんど何処でもある。イタリアも学校や田舎の公衆便所にはしゃがむスタイルのが多い。確かブルガリアの学校のトイレを借りたときには、水洗ではなかったように思う。日本式のようなトイレで、落とす穴が小さく、そこをめがけて落とすのはこれも技術だ。
中国は、これも70年代後半の話だが、外国人用のホテルは勿論洋式水洗だが、工場へいけば縦に穴が掘ってあって、そこにまたがって用をたす。仕切りはないから、前で用を足している人のお尻はまる見えだ。まあ、トイレを秘密の場所のように締め切るのは日本ぐらいで、ヨーロッパだと、まずドアの下の方は空いている。ドイツだったか、スイスだったかの空港のトイレでドアがすりガラスになっているので、中の顔は見えないが、しゃがんでいるのははっきり見えるというところもあった。まあ、おおらかなものだ。
日本の感覚ではトイレとお風呂を同じ場所に置くということはなかったが、ご存じのようにあちらでは同じだ。従い、トイレはbagno(お風呂)という。トイレに行くときに、Nature calls me.というと、大体通じるが、この言い方を普段使うのかどうかは知らない。あるベルギー人とイタリアで一緒に仕事をしていた時期が5年ほどあったが、彼はトイレに行くときには、鼻をくんくんさせて、「こっちだ」と言って、みつけていた。トイレにまつわる話は終わりがないので、ここらで。
 
117.buffa (ブッファ): “カタログもオペラでは、人の目録に”
catalogoと聞いて、“Don Giovanni”を思い浮かべる人は、かなりなオペラ通でしょうね。catalogoは、勿論「カタログ、目録」のことで通常は商品の目録を思い浮かべますが、オペラ “Don Giovannni”の中にある通称「カタログの歌」は、なんとDon Giovanniがそれまでに関係した、女性の目録です。しかも、この歌の締めくくりでは"Mille tre"(1003)と言いますが、これが関係したスペイン人の女性の数、他にはイタリア人740人、ドイツ人231人などとどんどん続くので驚きます。同じMozartに"Cosi fan tutte"というオペラがありますが、これも「女性はみんなこんなもの」というタイトルで、旦那の留守中にどれ程硬い女性でも浮気をさせてしまう話、尚Mozartはこれらのオペラをイタリア語で書いています。Cimarosaの“Matrimonio segreto”「秘密の結婚」、Donizettiの“L'elisir d'amore”「愛の妙薬」はハラハラさせるが最後は結ばれる喜劇、Operettaはoperaに-ettaという縮小辞をつけたものですが、これも喜劇で主として「こうもり」や「メリーウイドウ」などシュトラウスやレハールの作品を呼びます。メリーウイドウはイタリア語では、"Vedova allegra"「陽気な未亡人」と呼びますから、operaを通じて知るイタリア語もまた楽しいものです。尚、イタリアの喜劇は、通常Operetta(オペレッタ)とは言わず、buffa(ブッファ)と言います。
 
 
118.camera (カーメラ):“カメラ「写真機」のことではありません”
辞書を引かないでも解りそうな言葉として、多くの人が間違いやすいのがこれ。これは、カメラではない。イタリア語のcameraは「部屋=寝室」のことで、カメラはmacchina fotografica とちょっと長い。
カメラ(写真機の方)に関して言えば、日本製が世界で大きなシェアを占めている。以前にキャノン製の普通のカメラだが、ちょっと形が変わっているカメラを持っていた。まだデジカメが流行る前の時代で、フィルム式なのだが、一見するとビデオカメラのような形をしていたためか、イタリアで使っていると、日本人が持っているのだから最新式のカメラだろうと言われた。また、当時ソニーのスティルカメラ(Still Camera)と言うのを持っていたが、これは私自身も結局は使いきれなかった。これは、恐らく実際に最先端のカメラだったのではないかと思うが(まだ現在のデジカメが出る前で、取った写真をフロッピーディスクのようなものに保存出来た)、私なんかよりも興味あるイタリア人の方が良く知っていた。1978年に中国上海へ行った時に、カメラを出すと周りに人だかりが出来た覚えがある。それは、私と同行した人が持っていたものだが、当時中国の人もとてもカメラに興味を持っていたようだ。日本では江戸時代の終わりころからの写真を見ることができるが、カメラはこの150年ほどとても庶民に浸透したのではないかと思う。さて、イタリア語のcameraはカメラじゃないですよ、という話が脱線してカメラの話になってしまった。
camerinoといえば、小さい部屋=試着室の事を言う。また、cameraは普通ベッドがおいてある部屋のことで、居間とか書斎などはstanzaという言葉を使う。
 
119.carte (カルテ):“イタリアのトランプ遊び”
cartaの複数で、カード遊び(トランプ)のことである。日本のカルタがポルトガル語というのは有名な話だが、勿論単数の意味は「紙」である。ドイツ語のカルテは、病院で使われる様だが、イタリア語にはそういう意味は特にない。英国の大憲章のことをマグナ・カルタと呼ぶが、勿論これはラテン語である。従い、cartaは憲法、憲章という意味もある。
さて、イタリアのcarteをひとつ紹介しておきましょう。日本には独特の花札という遊びがありますが、どこの遊びでもカードを使ったものはどこか似ています。scopa(スコーパ)はイタリアではとても人気のカードゲームです。カードや遊ぶ方法は地方や、人によって色々と異なりますので、これから紹介するのはひとつの遊び方です。やってみると大変おもしろく、時の経つのを忘れますよ。
手許にカードがないと分からないでしょうから、トランプを思い浮かべて下さい。イタリアのcarteも4つの種類があります(スペード、ハート、ダイヤ、クラブのように)。それらは、denari(硬貨)、coppe(杯)、spade(剣)、bastoni(棒)の4つです。そしてそれぞれ1~10までの数があります。従い合計40枚が使用されます。1~7まではそれぞれの数を数えますが、8はFante(歩兵=英語のJack)9はCavallo(馬、または騎兵=knight)10はRe(王様=King)です。
遊び方は単純です。単純な方が覚えやすく誰でも遊べるからでしょう。2~4人で遊ぶのが一般的な様です。3枚づつ裏にして配り、4枚を表にしてテーブルの真ん中(場)におきます。手持ちのカードと場のカードが同じ数字なら場のカードが取れます。場のカードは2つ以上合わせることも出来ます。(手持ちが8で場に2と6があれば取れます。反対は出来ません=手持ちで使えるのは一枚だけ。)合うものがなければ、手持ちのカードを一枚場に出します。3回、回れば手持ちが無くなりますので、もう一度配ります。配るのが無くなったら終わりです。場に1枚残っていて、次の人が手持ちのカードでこの一枚を取ることが出来たら、それをscopaと言います。scopaは「箒=ほうき」の意味です。
さて、全部なくなったら得点を数えて、記録します。得点は次の様に計算をします。まず、①scopaをやったら1点です。従い後で計算するときに分かるように、scopaでとったcarteは裏返しにしないで表にしておきます。次に、②全体で最も多くカードをとった人は1点貰えます。次に、③coppeを最も多く取った人は1点です。(coppeではなくdenariとする人もいます)。次に④7をとっていれば、7一枚に付き一点です。(これも、得点になるのはdenariの7だけだというルールもあります。denariの7は、settebelloと言って、もっとも強いカードです。settebelloはイタリアの超特急列車の名前に使われています。)また⑤7を4枚とも全部取ればまた1点です。(7もしくは6を一番多く取っている人が1点というルールもある)。こうして得点を数え、それを記録し、誰かが12点を取ったらその回の勝負は終わりです。一回のゲームで取れる点数は多くて4~5点なので、あまり細かい数字は出て来ません。また、ゲームの最後で誰もscopa出来ないで残ったカードは、最後にscopaをした人が貰えます。もしそのゲームで誰もscopaしなかったら、最後に残ったカードは誰のものにもなりません。取り敢えず、上の①~⑤の得点方法でやってみて下さい。トランプでも遊べます。
尚、同じ様なカードを使った遊びにtaroccoというのがありますが、これはタロット遊びと称されます。tarotは占いに使うカードで、タロット占いという名前で知られています。占いが先かカード遊びが先か分かりませんが、このカードを使った遊びは15~6世紀にイタリアで始まったとの説が有力です。tarotはそのカードの中にtrionfo(勝利)と呼ばれるカードがあって、それがtarotに進化した様です。また、トランプ(trump)は「切り札」の意味で、日本ではこれを取って、トランプと呼びますが、基はtrionfo(勝利)から派生したものではないかと思います。カードは、その起源をどこにおくのかは明確には分かっていないようですが、carteのDenariの絵は、麻雀のピンズにそっくりです。従い元祖は中国かも知れない。日本の花札はポルトガルから伝わったカルタが起源らしいので、世界中のカードゲームはやはりなにか関連しているようですね。いずれにしろ、トランプはイタリアのカードが基となっており、トランプゲームの原種だと思えば、少しやってみたくなりませんか? contare come due di Coppe(杯の2とみなす)という熟語があります。Coppe(杯)の“2”は最も弱いカードです。だから、この意味は「弱い」「力がない」となります。
 
120.fazzoletto (ファッゾレット):“ハンカチのもとは「はながみ」”
これはハンカチと訳される。ハンカチは、handkerchiefという英語からきたものだが、これはhandとchiefはchiffion(シフォン)あたりからきたものだろう。手に持つ柔らかい布地という意味なのだろうか。英語はさておき、イタリア語でfazzolettoという言葉を使うときには注意がいる。イタリアには、ハンカチはない。誰もハンカチなどもっていない。特に男性においては皆無である。fazzol-ettoの"etto"は、小さいものを表わす。Etichetta(エチケット)はetica(道徳)から出て、小さな道徳の意味、pacchetto(パケット)はpacco(箱、包み)から出て、小包のこと(パケット通信のパケットも、小さい箱のこと)など、多くの外来語にも通じる。従い、fazzolettoはfazzolo(ネクタイ用生地)の縮小辞である。つまり、恐らくこれは、ネクタイの余った生地のことを指していたものと思われる。従い、余り生地だから、はながみ代わりに、しかも柄が入っているので女性がおしゃれに使っていたのだろう。イタリアではfazzolettoは、はながみ代わりに使う切れ端のことである。日本でいうティッシュなども、fazzoletto da carta (紙製のハナ拭き布)ということになる。日本のハンカチメーカーの規定によれば、ハンカチとスカーフの境は、一遍の長さにあるようだ。定かではないが、60cmあたりが境になったように記憶している。つまり、日本では大きさだけで分けられており、用途は関係ない。実際に、高価な刺繍やプリント入りのハンカチも多く、ハナをかむどころか額縁に入れて飾るためのものもある。fazzolettoといって思い出すのは、Comoのプリントメーカーとハンカチの話をしていたときに、そこのオーナー(実は高名なテキスタイルデザイナーでもあるが)が、Otelloを思い出すといったこと。そういえば、VerdiのOpera”Otello"の重要な小道具が、ハンカチだ。さすがに芸術家は発想が違うと思った。

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