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イタリア語 単語の話(14)
読んで楽しいイタリア語の話
単語で覚えるイタリア語
131.husky (アスキー)、 montgomery (モンゴメリー)、 barbour (バルボア):“覚えていれば便利な衣料品の俗称”
これらはイタリア語ではない。しかし、ある種の衣料品をこのように呼ぶので、これは知っておいて損はありません。
Husky(ハスキー)とは、薄いキルトジャケットのことで、イタリアでは少し寒いときに、上着の上に着るものとして定番。ハスキー犬のこともこういう。
Montgomery(モンゴメリー)とは、ダッフルコートのこと。なぜ、Montgomeryというのか、これは第2次世界大戦で、連合軍を率いてシチリアに上陸したイギリスの将軍の名前を取っているそうだ。イタリアに上陸した時にダッフルコートを着ていたのかどうかは定かではない。日本では、進駐軍としてやってきたマッカーサー元帥が圧倒的に有名だが、それがイタリアではモンゴメリー将軍ということだ。
Barbour(バルボア)とはイギリスのブランド名で、油性コーティングコートのこと。
他に、Lodenは、ローデンという生地を使ったコートのこと(オーストリア、スイスなどの山岳地帯でよく着られるコート)。golfは、セーターの事を指す。felpaは、裏毛のことを言うが、一般に知られている言葉としては、フリースのことを指す。また、impermeabileは防水コートのことだが、日本で一般にコートと呼ぶトレンチ(綿製やポリエステル製のもの)コートは、impermeabileといい、コートのイタリア語であるcappottoは、オーバーコート(ウール中心の厚手のもの)にしか使わない。fuseaux(フゾー)やfoulard(フラー)はもともとフランス語だと思うが、fuseauxはスパッツ(伸び縮みのするパンツ)、foulardはスカーフのことです。
132.Moro (モーロ):“サッカーチームの愛称その3”
イタリアの代表的なデザートのひとつに、frutti di bosco がある。森の果実という名前だが、これは通常ベリーの盛り合わせで、アイスをつけるとかなりおいしい。frutti di boscoは別項で成分等を書いているので確認してください。さて、成分の中のmore〈ブラックベリー)は単数をmoraというが、mora もしくはmoroには、黒い人、褐色の人と言う意味がある。イタリアのサッカーチームにCagliari(カリアリ)というのがあるが、これはSardegnaのチームで、呼び名を Quattro moriという。サルデニアの旗は、このQuattro Moriという旗で、4人の黒人が描かれており、それを赤の十字が分断している形だ。moroというのは、もともとムーア人を表すとあるが、ムーア人とは、サラセン帝国のイスラム教徒を指すとか、アフリカのモーリタニア人を指すとか、諸説があり時代とともに支配民族の違いからそのものが変わって行ったようだ。実は、フランス領だがサルデニア島の北側にある、コルシカ島(ナポレオンの出生地として有名)の旗も、同じ黒人が描かれているが、こちらは1人だけである。あるイタリア人の話では、12世紀ころに、サルデニアを侵略してきた肌の黒い人種を彼らが打ち破った為に、勝利の成果として4人の黒人を旗印にしたという説を唱えてくれたが、どうも自国の旗に異人種を描くのは納得できない。むしろ、イスラム教徒がスペインを支配していた時期にサルデニアはその支配下にあったので、イスラム教徒自身の旗をサルデニアの国旗(サルデニア王国)にしたのではないかと思う。
ところで、このmoroの意味だが、黒いとか黒人とかの意味だろうと予想したのだが、広義の解釈では髪や肌の色が薄い色(髪なら金髪や薄い茶色)でない人はmoroだという。目が青くても髪がブラウンだとmoroだと言えるそうだ。そうすると、イタリア人の原種とでも言うべき、髪も目も黒い人は、肌は白か褐色でもmoroとなる。アジア人種は、皆一様に黒い目、髪でmoroに違いないが、黒い肌の人種とはそれほど区別していなかったことになる。極端に言えば、白か黒か、金髪か黒か、の区分けしかなかったのだろうか。もしそうなら、サルデニアの旗の黒い人は、サルデニア島民の絵であってもおかしくはない。
ミラノのSforzesco城のそばには、Quattro Moriというレストランがあるが、これは間違いなくサルデニア料理だ。またmori は、モンゴル語で「馬」の事を言うらしい。チンギスハンの頃に中央アジアから東欧州を制覇した名残がこういう言葉で残っているとしたら面白いのだが、これは、少し考え過ぎの様だ。
第十四章 日本事情、イタリア事情
133.codice (コーディチェ):“マイナンバー制度ではイタリアは40年以上の先輩”
これは「番号」のことである。英語ならcodeに当たる言葉で、「暗号」の意味もある。日本の「マイナンバー」制度に当たるものがイタリアではcodice fiscaleと言って、イタリアに住むと付与される。イタリアに少しでも住むと必要なのが、permesso di soggiorno(滞在許可書)と、このcodice fiscaleだ。fiscaleは税務のことなので、この意味は「税務番号」ということになる。日本では、税という言葉が生々しいので避けたのでないかと思われる(私の勝手な憶測ですが)が、せめて日本語でつけて貰いたいと私は思いますが。
ちなみにイタリアでは1973年に既に導入されているので、日本は40年以上も後になる。この読み方は、コーディチェと「コー」にアクセントがある。イタリア語のアクセントは、一般に下から2番目の音節にあるのが最もイタリア語らしい。例えばfiscaleは「カーレ」にアクセントがあり、permessoは(メッソ)soggiornoは(ジョルノ)という具合である。しかし、時々このように、下から3番目の音節にアクセントがあるものがある。vigile(ヴィージレ=自治体警察官)、medico(メーディコ=医者)、giudice(ジューディチェ=裁判官)、subito(スービト=すぐに)などである。あるイタリア人の話では、ギリシア語から派生した単語にそういうものが多いと言いうことだが、そうなんだろうか?
イタリア語の動詞には、are動詞、ere動詞そしてire動詞があるが、are動詞はそのほとんどの原型(不定詞)が、下から2番目にアクセントがある。つまり-areのaの上にアクセントがある(例:andare、cantare、mangiare、parlare、studiareなど)。これに対し、規則変化するere動詞の不定詞のアクセントは、殆どがereよりも前にある(例:prendere、spegnere、ridere、scendere、leggereなど)。しかし、ere動詞でも不規則変化動詞の場合は、ereの上にアクセントがあるものが多くなる(例:tenere、piacere、sedere、dovere、potereなど)。一体どういう規則になっているのか分からないが、この様に偏っていることは確かだ。調べてみてごらんなさい。
134.collina (コッリーナ):“丘はどっしりとして居眠りをしている感じ”
これは「丘」のことを指す。イタリアでは丘の上に町を作るが、そのことを良く理解していないと意味が良く分からないことがある。例えば、有名なケサラ(Che sarà)という歌があるが、この歌詞は次のようになる。Paese mio che stai sulla collina. Disteso come un vecchio addormentato;La noia. L'abbandono. Il niente. Son la tua malattia.Paese mio ti lascio. Io vado via.「私の故郷、それは丘の上にあり、まるで年寄りが横になって居眠りをしているようだ。退屈で、誰も見向きもせず、何も無いこと、これがお前の病気さ。故郷よ、さらば、僕はここを去る。(続いて)僕の人生がどうなるかは分からない。僕には、何でも出来る力があるのか、それとも何も出来ないのか、明日(将来)になれば分かるだろう」と、このような歌詞です(著者訳)。一般に広まっているこの歌の日本語の歌詞は、これとは全く異なるものとなっています。外国の歌の日本語訳の歌詞は、直訳もあれば原文とは関係のないこともありますが、この歌の場合、イタリア語の直訳では日本人に伝えることが難しいと思って意味を変えたのではないかと思われます。この歌詞の「年寄りが居眠りをしているようだ」という表現は、退屈で何もすることがないという意味と、もうひとつは丘そのものがそのように見えるという2つのことを言っているようです。そう思うとUmbriaやToscana地方の情景が頭に浮かび、この歌がとても心に響きます。あの丘々はそう見えないこともないと思います。歌詞のなかにdistesoという表現があり、これが形を想像させます。尚、paeseは国のことも小さい村の事も言います。日本語でもおらが国といえば、おらが村のこと。Collinaといえば、そういう名前の有名なarbitro(サッカーの審判)がいたのをご存知でしょうか? 日本人なら、岡さんです。
135.curare (クラーレ):“訳しにくい日本語の表現”
「世話をする」という意味である。名詞は、curaで、世話、心遣い、治療などと訳される。動詞は英語のtake care of に相当する。Si curi!といえば、「お大事に!」という意味だ。日本語ではよく「世話」という言葉を社交辞令で使うが、この言葉は翻訳しにくい言葉のひとつだろう。
外国語に訳しにくい日本の挨拶言葉とは次のようなものではないだろうか。①「いつもお世話になっております」または「毎度ありがとうございます」②「よろしくお願いします」または「お願いします」③「お疲れ様」または「ご苦労様」④「お邪魔しました」または「失礼しました(お別れの時の)」である。これらの言葉は、イタリア語若しくは英語では使わないから、言わなくていいという事になっている。
言葉は文化だから、その言葉を話す時にはその文化に合わせるというのもひとつの考えだろう。しかし、一方日本語はこのような表現文化を持っており、これを使わないとなんとなくすっきりしないという人もいることだろう。
1970年代に会社の偉い人が中国へ出かけて、「いつも当社の北京事務所や担当員がお世話になっており有難うございます。云々」と社交辞令を長々と述べたところ、通訳した駐在員はひとこと「謝々」で終わったと話題になったことがあった。実は私も同じ経験があって、イタリアからの来賓に対して通訳をする機会があり、こちら側のトップがこの種の社交辞令をまず述べた。一瞬困ったなと思ったが、この人は、「一応立場上長めに言ったが、訳せないだろうから、“来てくれて有難う”だけで良いよ」と言ってくれたものだ。そういうやり取りが相手にも伝わって、大笑いになり、最初から大変くだけた雰囲気になった。
ただ、語学を学ぶ姿勢として、相手国の文化を尊重するのは無論だが、英語ではこういう事は言わないとか、こう言われたらこう答えるのが決まりだというような事は、あまり杓子定規に考える必要はないのではないだろうか。挨拶言葉は、それでもいいだろう。例えば、イタリア人は“Come stai?”と会うたびに聞く。面倒くさいと思っても、これは挨拶言葉だと思えばいいだろう。日本語の「こんにちは」も、何の意味もない言葉にすぎないのだ。
日常会話の場合、日本語(日本人)は、基本的に控えめ、遠まわし、遠慮がち、思わせぶり、謙譲を言葉の中に含めるのに対し、外国語(特に米語)は、論理的、明解、自己主張を主とする。そういう事を知りながら、言いたい事は言う、という会話が必要なのではないだろうか。次第に、お互い譲歩しながら、理解を深めて行けると思うのだが。
色々ご意見はあるかとは思うが、論理と自己主張はアメリカ式で、これに慣らされた人はこの手の論理を主張するが、イタリア人を始めイギリスを含む欧州は、論理よりも人間関係に拘るような気がする。ただ、論理を主張するアメリカ人は「論理的」や「公平」という言葉に大変弱いのである。嘘と思うなら試してみたら良い。一方、自由と平等を建前にする国だが、これらには制限がつくことが分かっているので、「自由」や「平等」が言葉として問題になることはない。勿論建前論は別だが。
さて、話を戻し、上述の表現を、日本的な情緒を残してイタリア語で表わすと、一般的には、①はPiacere di revederLa. ②はSperiamo di avere degli affari insieme. ③Buona serata!(Buona giornata!)Si rilassi!(Si, riposi!)④Grazie per l’ invito. Arrivderci! などが、通訳がとっさに使う表現となるでしょうね。あなたならどう訳しますか?
136.il Lei (イル・レイ): “敬語”
先日韓国のご婦人とお話をする機会があった。お話を聞いているとふと、この方の日本語がとてもきれいなことに気付いた。日本語の敬語をとても、優雅にうまく使っておられるのだ。実は自分の日本語が恥ずかしくなってきた。この方は2世や3世のかたではなく、韓国からご主人の仕事の関係で日本に来られて、日本で日本語を学んだとお聞きした。そして、会話中心ではなく文法から、そしてきれいで正しい日本語を使うことを心がけて学んだと仰っていた。
日本語の敬語には3種類ある(大きく分類すると5つあるそうだが、、)。尊敬語、謙譲語、丁寧語がそれである。尊敬語とは、相手を上位に置く表現で、「お」や「ご」を付けて言うことがこれに当たる。謙譲語は、相手よりも自分を下に置く表現で、「行く」を「伺う」と言ったり、粗品、愚妻、拙著、弊社という言葉など。丁寧語も相手より自分を下に置く表現で、~ます、~です、~ございますなどの表現を言う。いずれも、相手を上に見るか敬う表現で敬語という。言語には夫々、こういった表現があるものとないものとある。中国語には、尊敬,謙譲はあるそうだが、丁寧はない。
イタリア語やフランス語は、尊敬語として2人称の代わりに3人称や二人称複数形を使う方法がある(tu-Lei*、tu-vous *イタリア語ではleiはもともと「彼女」の意。「あなた」の意味で使う時にはLeiと大文字で書く)。イタリアでも単数の代わりに複数形を使って尊敬を表した(tu-voi :これは第2次大戦中用いられ、またRoma以南ではその後も用いられていたが、今は衰退)。英語は昔thou(君)とyou(あなた:あなた達(you)という複数形を単数に使うことで敬意を表した)を分けていたが、今はyouのみ(従い単数も複数も同じ)。基本的に英語は、ラテン語やゲルマン語を簡素化した言語なので、敬語は簡素化されてしまった。英語で敬語を使うには、他の言語もおなじだが、Mr.Mrs.をつけるか、pleaseを付けることで、単語や述語が変化するものではない。但し、ラテン語における条件法や英語の仮定法表現は、丁寧語と言えるのではないかと思う。
ちなみに、イタリア語ではLeiで話を交わしている相手と、親しくなったら、若しくは親しくなろうと思ったら、”Diamoci del tu?"「tuでお互い呼び合わない?」と言う。主題のil Leiは「敬語」のイタリア語訳を指しているが、正確には「敬称」であろう。敬語がない言語には、訳語がない。説明するには、parole cortesiとか、parole onorificiという。la buona parola、やdire buona parolaは、「褒める」「お世辞を言う」に近く、敬語とは異なる。
さて、大学在学中に初めて私は海外へ行った。旅行中にあるアメリカ人から、私の英語はとても正しいと言われた。私自身はその言葉を、そのままには受け取らず、教科書英語で古臭いと言われたんだろうくらいに理解した。何しろ彼らが話している英語が良く分からないのに、褒められる筋合いはないのだ。一方、他のアメリカ人から単語のスペルを聞かれた。その単語は今でも覚えているが、equivalentだ。それまで日本で中学高校と英語を勉強してきた成果がここで出てきた訳だが、恐らくこの時に私は英語の束縛感からかなり解放されたはずだ。単語のスペルをネイティブが日本人に聞いてくるのだから。きれいな発音、流暢な会話、知らない単語への恐怖など必要ない。勿論単語は知っているに越したことはないが、日本の学校はちゃんと通じる英語を教えてくれているということ。会話は年々移り変わるので、それについていく必要はあるが、まあ2~30年遅れるのは仕方がないのでは。偉そうに言える日本語を私も使っているわけではないが、最近流行りの「タメ口」しか使わない会話を耳にすると、アメリカ文化の影響だけではないだろうが、日本文化が亡くなる危機感を覚えてしまう。言語は、とても大きな文化ですから。
137.ipotesi (イポーテジ):“海外ではよく使われる「仮説」”
イタリアに仕事で赴任した時に、彼らが良くこの言葉を使う事に気付いた。これは、「仮定、仮説」と言う意味である。「こう仮定してみよう」だが、「「これはどうだろう」という程度の意味だ。日本語では仮定や仮説などという言葉はこういう場面で使わないが、イタリア語的な表現の一つだろう。またretorico「修辞的な」など日本語では難しい言葉も「美辞麗句の」「表現がかっこいい(だけ)」の意味で使われる。
さて、私は、「日本人は、中国語、イタリア語、英語の3つのライン上で外国語を学んだほうが良い」というipotesi(仮説)を挙げる。尚このipotesiは別項(tè、dialetto、suono)でも述べているのでご参照下さい。
中国語、ラテン語、そして英語は夫々言語圏として大きな版図を占めた事があるか、未だに占めている。日本語は中国から伝わった言語に、日本独特のひらがなを加え、作られていった(そうではないという説もある)。しかし、儒教の教えを主とした教理が根強く、明治維新まで漢語の学習は怠らなかった。江戸時代の鎖国の結果、ヨーロッパはオランダからのみ文化の流入があり、オランダ語の学習も進んだが、当時訳された医学書などの文献は、オランダ語から漢文に訳されたのだ。日本語は中国語と、時制、格、そして勿論文字そして音が似ているが、構文が異なるので、漢文にする方が楽だったのだろう。中国語と漢文は大分異なるらしいが、構文については基本が変わらないので、中国語が出来なくとも漢文が出来れば、単語を調べてオランダ語の本は読めた。幕末の知識人みな漢語が出来たので、明治になってこれからは漢文ではなく英語だという時代になっても、単語さえ分かれば本は読めた。福沢諭吉翁などが海外へ行って本を買いあさり、急いで日英対訳の辞書を作ったのも、単語さえ当て嵌めていけば文章が読めたからである。恐らく発音は相当ひどかっただろうし、聞き取りも出来なかっただろう。が、自分の意思を伝えることはしたのではないだろうか。言語の基本は、相手に言いたいことを伝えることなのであるから、これが一番重要なのだ。翻って、今日日本では漢文の学習は殆どない、そして突然日本語から英語である。この2者は日本語も含めた4つの言語ラインの両極にあるのだ。しかも学習方法が英語→日本語という方向性が主流(大多数)である。この問題は自分の意見が言えないことである。
138.La Senna (ラ センナ): “単語の男性形女性形の決め方?”
セーヌ川のことである。貴方の知っている川の名前を上げてみてください。il Po、il Tevere、L'Arno などイタリアの川は皆男性ですね。川はfiume(男性)だから男性形だと思っていませんか?il Danubio(ドナウ川)、il Reno(ライン)、il Meno(マイン)、il Volga(ボルガ)そしてil Mississippi、l’Amazonなども皆男性形です。多摩川、神田川、隅田川など、-aで終わる川の名前は、男性か女性か? 実は、川だからと言って男性形とは決まっていはいないようですが、大体男性形のようですね。こういうのをイタリア人に聞いても、はっきりした答えは返って来ません。決まっていないと言う人もいれば、fiumeが男性形だから、男性形じゃないかという人もいます。じゃ、La Sennaはどうだと問うと、それは例外だとなる。私のいじわる質問は続く。では、山は? il monteとも言うが、la montagnaと女性形もあるでしょうと。il (monte) Fujiやil Monte Biancoは男性形。l’Everestも男性形、でもCiomoramma(というかどうか知らぬが)のように-aで終る山はどうなんだろう。取り敢えず「山」はどうも男性形のようだ。
では、山脈は? le Alpiは女性形で、gli Appennini(アペニン山脈)は男性形。これが、なぜかという説明はなかなか得られない。そう決まっているし、イタリア人にとってはこの二つの山脈しか興味がないので後はどうでも良いとなる。でも一応、le Montagne Rocciose(ロッキー山脈)、le Ande(アンデス山脈)、le Montagne dell'Himalaia(ヒマラヤ山脈)と、山脈はmontageで表すので女性形となる。だから、gli Appenniniは例外なのか? 恐らく、これらは固有名詞なので、le montagne をつけて山脈を表す場合は、女性形になるのが普通なのだろう。固有名詞としてAppenniniと呼ぶ時は「山脈」とは呼ばないのだと思われる。日本語にする時には「アペニン山脈」というが、イタリア語では、例えば「アペニン地帯」的な意味で呼んでいるのではないのだろうか。Himalaiaに関して言えば、この単語だけでは男性名詞である。実際ヒマラヤ山という山があるわけではない(あるのかどうか実のところは知らないが)。あの地帯の事をヒマラヤと呼ぶ時は、男性名詞で、山脈と言いたければle Montagneを付けて女性形にするということなのだろう。
ちなみに、会社の名前はどうなんだろう?これは、殆ど女性形になる。知っている限りの会社の名前を挙げても全部女性形だ。しかし、会社の名前が女性形だという決まりはない。l’Honda、la Toyota、la Fiat、la Microsoftなど、全て女性形だ。これは、恐らくditta(会社)が女性形によるものだという。しかし、例えば、la Seibuといえば、SEIBUという会社になるが、grande magazzino(百貨店)は男性形なので、「SEIBU百貨店」はこの道理だと男性形の il SEIBUになる。grande magazzzinoではなく、centro commerciale(これも百貨店、または商業センター)からの連想かも知れないが。
La Sennaに関しての続報を書く。フランス語では川は女性形だそうである。従い、セーヌ川は女性形で良い。もしかしたら、フランスの川は女性形?かと思って調べたら、il Rodano(ローヌ川)は男性形だった。小さな川は分からないが、やはり男性形なのだろう(フランス語では女性形になる)。尚、mare(海)もイタリア語では男性だが、フランス語では女性形(ラ・メール)。Mediterraneo(地中海)は男性形だが、フランス語では女性形だそうだ。
139.mammone (マンモーネ):“マザコンのこと”
イタリアで地中海クルーズ(crociera)の大型船が座礁して転覆する事故があった。船長(capitano)が、乗客(passeggeri)よりも早く逃げたと問題になった。だから、イタリア人は駄目だなどと思われてしまうかもしれないが、そんなことはない。彼が岸に上がってから、日本だと海上保安庁にあたるようなところに電話をした記録が音声で放送されている。その時に担当者は、強い口調でこのcapitanoを非難し、早く船に戻れと指示しているのだ。それが、一般的なイタリア人の感覚なら救われる。一方このcapitanoは、報道によれば母親に電話を入れたとある。そこで、このmammoneが出てくる。これは、イタリア語の「マザコン」に当たる。但し、この言葉はこの船長だけへの言葉でなく、イタリアの多くの男性(女性も)が、母親から独立出来ない様子を指す言葉だ。船がなぜ座礁したかについては、今後色々調べられるだろうが、船員に故郷を見せてあげる為に岸に近寄り過ぎたと言っている。
私にはひとつ思い出すことがあった。あるときミラノで車が渋滞していたのだが、その原因は一台の車にあった。その車には3人の男性が乗っていて、舗道を歩いている女性の品定めをしていた。その間運転手は、ハンドルを放し、車を斜めに停車させていた為、後ろの車が渋滞していたのだ。そのくるまはナポリナンバーだった(昔はナンバープレートで登録地が分かった。今は表示方法が変わった為どこの車かは分からない)。この船長もナポリ出身だそうである。私の予想は、この船長は船員に故郷を見せたのではないということである。故郷を見せるくらいでは、岸により過ぎである。いや、もう少し離れた方が良く見えるはず。自分がもっと近くで見たいものがあったのでは?これ以上の邪推はやめておきますし、また、たまたま遭遇した一つだけの例を元に、ナポリ人への偏見とも取れる表現をしたことについては、訂正しておかねばならない。ただ、このような事故の報道で思ったのは、どれが事実なんだろうかということである。
事実は、fattoという。fattoとは、fareの過去分詞であり、まさしく「起こったこと=事実」なのである。しかし、これ(事実)が文章として書かれると、誰かの主観や利害がかかわってきて、story(storia)になる。historyはstoryなのである。国家間における戦争の歴史などは、全てstoryだと思えば、いちいち間違いを論ずるには当たらない。
140.passaggio (パッサッジョ):“大都市に踏み切りがあるのは日本では普通?”
意味は、通路とか通過。"Vietato Passaggio" という看板があったら、通行禁止(または通り抜け禁止)。"passaggio pedonale"は「舗道」、passaggio sotteraneoは「地下道」。passaggio a livelloは、「踏切」のことである。
さて、この踏切だが、意外とイタリアなどにはない。日本にもないと思うのは、住んでいる場所によるのであって、東京に住んでおられる方は、私鉄はほとんどこの踏切であることをご存知ですね。都内の新宿や池袋に近い、私鉄沿線は場合によっては、6~8台ほど電車が行ったり来たりで、開くまで相当待たされてイライラする方も多いでしょう。イタリアでも、めったに見かけないが、地方へ行くと高架されていない関係で、踏切に出会うことがある。それは、かなりの田舎であることが多い。イタリアで何度か踏切を渡った経験がありますが、イタリアの踏切の特徴は、何と列車が来る30分ほど前に閉まってしまうこと。従い、踏切がある場所に、BARがあることがあります。踏切が閉まったら、皆やおら車から降りてきて、そのBARに入り、ESPRESSOを一杯飲んで、列車の通過を待ちます。結局これで、いらいらすることもなく待っていられるのでしょうね。遮断機が早く閉まる理由は、だいたい無人の踏切ですから、早めに閉めて事故を防ごうと言うことらしい。まあ、分かっている人は、コーヒーが飲めて良いと、特に騒ぐ人はいない。なお、遮断機のことは、sbarraといいます。また、passaggioには、車に乗せること、ヒッチハイクなどの意味もあり、Ti offro un passaggio alla stazione.といったら、(駅まで乗せてあげるよ)という意味です。