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先月90歳で逝った祖父の人生が僕に語りかけること

先月、祖父が亡くなって、沖縄に1週間だけ帰った。

90年ほど生きただけあって、盛大なお葬式だった。200名くらいは参列者がいたと思う。

祖父が生まれたのは1932年。
犬養毅首相が暗殺された年だ。激動の昭和初期。

10代前半で沖縄の激しい地上戦を経験。
妹をおぶって逃げ回ったという。

終戦後も楽ではなかっただろう。

本土復帰までの沖縄は次から次へと凄惨な事件が起こっていた。

そんな中で、祖母と出会い、祖父からすれば「憎きアメリカー」のお客さんを相手に商売をし、5人の子供を育ててきた。

僕の母はその5人のうちの末っ子だ。
めげずに生きた祖父がいて、今僕がいる。

今日は、祖父の生きた人生を、苦難の中にいる人に希望を与える人生を、少しでも誰かに知ってもらおうと思い、記事を書くことにした。

去年の10月に書いた記事を一部修正して、アップグレードしたものである。


6月は祖父が落ち着かない

毎年6月23日の慰霊の日辺りになると、祖父は周りの声も聞こえなくなったように怒っていた。

何に怒っているのかといえば、「アメリカー」や「ヤマトンチュ(本土の人)」に対してである。

ぶつぶつと方言で罵るので、何を言っているかは僕にはわからなかったし、通訳できる親族も何を言っているかを教えてくれることはなかった。

一応説明すると、本土では休日ではないけども、沖縄では休日になる6月23日は戦争が終わった日として死者に黙祷を捧げることになっている。

TVでは沖縄戦特集が組まれ、小中学校では前後数週間にわたって平和学習が行われるのが恒例だ。

僕の通っていた小学校では、6月の間中、図書館から職員室までの20メートルくらいの廊下に、引き伸ばされたあの戦争の写真が展示されていた。

教室に行くまでに必ず通らなくてはいけない場所で、僕は毎年憂鬱だった。

そもそも白黒写真が不気味なのに、おぞましい地上戦を写したものとなると朝から気分が台無しになる。

戦禍の記憶

祖父は、終戦の年にはまだ10代前半で、戦争中は発達障害を抱える妹をおぶって島を逃げ回った。

銃弾が何発も視界をかすめ、何度も転び、飢えに苦しみ、草を食べ、途中で妹を捨てて逃げようかと何度も思ったという。

これは母から聞いた。

祖父が経験した沖縄戦について、それ以上の詳しい話は誰からも聞いたことがない。おそらく祖母や母、叔父叔母は知っているのだろうけど、誰も自分からは語ろうとはしないのだ。

あまりに悲惨で、重すぎる話であるためなんだろうと察せられる。誰にとっても、口にするのが躊躇われるレベルのことがあったんだろう。

たまに断片的に聞く話すら、聞くと気分が重くなる。自分の母や姉が兵隊さんに襲われた話なんて、孫にそうできるものではないだろう。

僕も弟もあえて深掘りすることはしなかった。

まあともかく、戦争が終わってよかったね。

残酷な話に耐性のない僕らは、そう頭の中でつぶやいて、すぐ楽しい別のことを考えるようにしていた、ように思う。

『宝島』との出会い

月日は流れて、中学では不登校になり、その頃は沖縄の人の一般的な考えとは大きく異なる主張をする本をたくさん読んだ。

高校に上がってからは平和学習自体がほとんどなかったこともあり、つい先週ぐらいまで、僕はあの戦争を割とフラットな目で、情報として見れるようになっていた。

それを悪いことだと思っていなかったし(今もそう)、僕らの世代が肉体的感覚としてあの戦争を引きずり切れないからこそ、アメリカ人や本土の人を「同じ人間」として認め、引っ掛かりなく付き合えるんだと思っていたしね。

だけれども、だよ。

なんとなく惹かれて、直木賞を取った真藤 順丈さんの『宝島』を読んでしまった。「第二次世界大戦後の沖縄を舞台に、コザ暴動に至るまでの若者たちの青春を活写した、叙事詩的長編作品」だ。:参考

内容の重さ、燃えるような熱量、立ち上がれなくなるような逆境(しかもほぼ実話だから余計に)がしんどくて一気には読めず、3週間くらいかけて、ゆっくりゆっくり読み進めた。

詳しい感想はこれから述べるけれど、とにかく読んでよかったし、たくさんの人に読まれるべき本だと思った。これほど魂を揺さぶられ、呆然とさせられる本はそうない。ミステリー小説としても抜群の出来だった。

ただ、とにかく読んでほしいとは思うけれど、具体的なあの時代の事件の数々を語るのはやっぱり躊躇われる。辛すぎるのだ。

親族の気持ちが痛いほどわかった。

本土復帰までの痛み

『宝島』を読み進めながら、なんだよ!沖縄戦が終わってからもずっと理不尽で、悲惨で、地獄みたいな悲劇ばかり襲ってきてたんじゃねぇか!

と何度も思わされた。

とことんテキトーで陽気に見える、
島中の50代以上の小太りなおじさんやおばさんたち!

あんたらの若い頃、この島はこんなやりきれないとこだったのか。

自分の身近にいる女性が痴漢や強姦未遂のような事件に巻き込まれた経験を持っているのを初めて知らされた時のような気持ちだった。

教師となったヒロイン、ヤマコの務める小学校にヘリが墜落。目の前で生徒が火の粉に包まれるシーンなんかは、それ以上リアルに書かないでくれと脳内で悲鳴を上げつつ読んだ。

戦中10代で、本土復帰の年には40代だった祖父。よく知る女の子や親戚の誰かが殺されたり、米兵に犯されたりするのだって何度もあったのかもしれない。

戦争を語り伝えると言ったって、こういったことを伝えるのは難しいだろう。貧しくて大変だった話、不便だった話、笑い話はたくさん聞かせてくれるけど、胸にしまい墓場まで持っていくつもりの出来事も山のようにあるんじゃないか。

そんなことを想像すると、祖父が毎年慰霊の日にだけ気持ちを爆発させ、ソワソワと落ち着かず、唸っているのも見え方が変わってくる。

90年。歴史を知るほどに重い年月だ。

生き延びるための廉潔で恵み深い知恵

僕の祖父を見る目を変えてくれた小説『宝島』。

書いたのは、東京出身の方だ。作者は、自分の生まれる前の、遠く離れた島の物語を書いたのだ。すごい。

同時に、県外の、時代も違う人に、あの大作を書き上げたくなるほどの衝撃を与えた戦後沖縄の歴史もすごい。

だから、自信を持って勧めたい。題材は沖縄ではあるけども、県外の人にも刺さる内容になっていると思う。

何せ、作者自身が『宝島』を書くためにあの日の沖縄に全身全霊で向き合った結果「一人の小説家としての組成まで」変わり、書く題材としてもはや「沖縄から離れられない」と言っているくらいだ。

作者は文庫刊行にあたってのエッセイでこう書き残している。

戦争や圧政のただなかから、どのように未来に価値を認めるかを模索してきたこの島からは、僕たちが生き延びるための廉潔で恵み深い知恵を受け取ることができるはずだ。

特別書き下ろしエッセイ

「希望を見出す力」と「立ち直る力」

『宝島』の舞台だった時代に青年時代を過ごした人たちが、沖縄にはまだたくさんいて、ピンピンしている。

みんな恰幅が良くて、陽気で、20代の僕より全然元気。

祖父の葬式に参列していた人たちが、ちょうどそんな年齢の方ばかりだった。ふだん冗談ばかり言って、よく笑い合っている人たちだ。

だからこそ僕は、信じられる。

どんな人の中にも「希望を見出す力」と「立ち直る力」がある。

どんな苦しみも軽減することが可能であり、誰もが、その瞬間から手をつけられる前進するための行動があると。

だから、今の状況が苦しい人には言いたい。

そこから見れば堕落にも思えるようなところ(学校休むとか、会社辞めるとか)まで撤退したって、きっとまた立ち直れる。しかも何度でも。

なんくるないさぁ!!

遅れて受け取ったメッセージ

数年前からは唸るどころか体も動かせず入院し続けていた祖父だけれど、僕が高校2年生になるくらいまではピンピンしていた。

暇だからといって、毎週耳鼻科と皮膚科と散髪に行っていたし、チラシを切って独自の感性でスクラップを作っては、親戚に自慢して困らせていた。孫である僕らには、目を瞑って片足で立てることを自慢したりしていた。

で、単純に考えれば、年を遡るほど、祖父は体力が有り余っていただろうし、記憶もまだ鮮明にあったはず。

つまり、慰霊の日の恒例行事は、
年を遡るほど付き合う大変さは増していっただろう。

祖母はたいてい、それに一人で付き合っていた。

落ち着くまで「よしよしよし」みたいな、なだめすかす言葉をかけ続けるのがお決まり。困ったような顔をしているし、孫の前ではやれやれみたいな愚痴をこぼすけれど、それでも寄り添うのをやめない。その理由もわかった気がした。

僕がこの怒りの恒例行事を目の当たりにしたのは、過去に二回だけだった。あとは疎ましくて避けていた。

あの時はわからなかったけれど、今ようやくメッセージを受け取れたのではないか。

晩年まで消えない心の傷を負いつつ、それでも希望を持って生きた彼の90年ほど僕を勇気づけてくれることはない。



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久高 諒也(Kudaka Ryoya)|対話で情熱を引き出すライター
サポートいただいたお金は、僕自身を作家に育てるため(書籍の購入・新しいことを体験する事など)に使わせていただきます。より良い作品を生み出すことでお返しして参ります。