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熊を求めて三千里
九州山地には月の輪熊が生息しており、江戸時代から生息していた記録が残っています。
昭和62年(1987)秋、祖母傾国定公園宮崎・大分県境の笠松山ふもと、大分県側(豊後大野市緒方町)で地元の猟師が月の輪熊雄一頭を射殺し、これが九州における熊の最後!?の可能性があります。
上野地区には『親父山』がありますが、この『親父』の名称は山の主である熊をさしています。
熊が生息していたことを表している名称であると言えます。
熊を捕獲、捕殺すると、その熊の供養として熊塚を作りました。
天保15年(1844)、上野の誌井知の旧家桐木家文書には村右衛門が熊塚を建て供養したという日記が残されています。
家の裏手の山上には屋敷荒神様と共にそれらしき石の積まれたほこらがありました。
これが熊塚とは定かではありませんが、鉄砲筒の修理を河内の人に頼んだとあり、猟が盛んだったと窺えます。
※ 碓井哲也著 『木地師・熊・狼 高千穂郷・山の民の生活誌より
河内地区、熊野鳴滝神社の参道の石段の途中より右手には神宮寺である興善寺があります。
そしてその上方、石段には看板もありますが、20メートル程中に入っていきますと、熊塚があります。
村中に出没する熊の射殺を命じた代官。
熊を発見すると大木の根に妊娠した熊が腹をさすりながら休んでいたそうです。
銃を向けると助けてくれと言っているようで撃てずにたじろいでいると代官に促され射殺したが、村人が死を哀しみ、祟りを恐れ供養したとのことです。
その後も文献に残っているように、「熊胆(くまのい」は胃腸薬、油は薬、毛皮は高級敷物など、高価な商品となったそうです。
豊後の国の本草(薬用植物)学者の賀来飛霞(かくひか)著の『高千穂採薬記・巻之一』の中には熊の生息を伝える記述が二ヶ所あるそうです。
明治14年(1881)になります。
薬としても重宝されていた熊の絶滅は免れなかったのかとも思うところもありますが、実際集落まで出没していたら、それはそれで怖かったなかぁとも思うところです。
いずれにしても、熊が存在していたという現実を知っておく事が大事かなと思うところです。
岩戸や五ヶ所にも捕獲された資料が残っており、熊塚が発見できればと思っています。
もしかしたら、またいつの日か野生の月の輪熊が姿を現わすことがあるかもしれないという可能性を信じていきたいと思います。
参考文献
碓井哲也著 『木地師・熊・狼 高千穂郷・山の民の生活誌
甲斐畩常著 高千穂村々探訪
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