西栄山浄専寺
五ヶ瀬町三ヶ所宮の原にある西栄山浄専寺がある。
元和「げんな」元年(1615)後藤孫太夫という者が入道し、釈宗願といい、浄土真宗浄専寺を開基した。
第2代常清の時、明暦3年(1657)本尊木仏寺号御免となり、西栄山浄専寺となった。
木仏寺号とは、一寺となるために、本山から寺号が免許されなくてはならず、本山が木仏を下付する際に木仏裏書に寺号を記載して、願主に渡す事であるという。
より引用。
徳川時代には延岡妙専寺末寺であった。また、六条御殿の出入りも許され、御門鑑(ごもんかん)が渡っていた。※通行証のこと
約650年前の大般若経が納められている。
宝永5年(1708)第4代釈常慶の時に、飯干善右衛門重次等、約60貫(225キロ)の梵鐘を献上した。
この時の梵鐘は太平洋戦争の時に他の寺の梵鐘と共に兵器として使用するため供出する事となった。
しかしながら、その後昭和23年(1948)梵鐘購入の議が起こり、第15代広記の時に、門徒代表者等の発起によって、同年9月門徒一同の浄財にて、京都の三和堂に鋳造させた。
本堂については、宝暦6年(1756)と明治11年(1878)の2度火災にて古文書類の多くが焼失してしまい、詳しい資料は残っていない。
明治4年(1871)廃寺を仰せ付けられるが、門徒総代西川元磧、米田淀八等が再三嘆願し、なんとか許され明治12年(1879)再興が聞き届けられた。
明治27年(1894)起工、同31年(1898)門徒総代西川谷三、坂本伝三郎等が奔走し、落成した。
これが現在の本堂である。
その時の大工は三ヶ所神社造営の棟梁牧彦兵衛の孫の牧泰蔵で、神社造営の際に見学のためこの地へ来て浄専寺再建の事を知り建築にあたったものという。
昭和29年(1954)桃山時代風の山門と共に鐘楼が建築された。
その後無量寿堂(納骨堂)の建造について、門徒多数の要望があり、鉄筋コンクリートの、三重塔が昭和48年(1973)に落成した。
さて、境内には宮崎県指定天然記念物となっている樹齢300年の枝垂れ桜がある。
第9代住職戒肇が京都の祇園より苗を持ち帰ったといわれる。
枝垂れ具合がとても美しく、ダイナミックで心奪われる。
毎年沢山の観光客が訪れる。
この桜の枝垂れた梢の下に安置されているのは元二上大明神別当観音寺である。
元々観音寺は隣接している三ヶ所神社の境内にあった。
※二上大明神、三ヶ所神社については以前記載したものを参照していただきたい。
正徳2年(1712)の三ヶ所郷寺社境内堂森御開帳によると、天正17年(1589)と記載されていることから、古くから観音が祀ってあったことが考えられる。
本尊の十一面観音は鎌倉時代の作であるという。
明治に入り、風雨に晒され腐蝕したため、本尊を浄専寺に安置していたが、昭和22年(1947)再建の議が起こり、同23年に浄専寺境内に一宇を建立し、薬師如来も併せて遷座した。
これが、浄専寺と観音寺のまとめである。
【参考文献】
五ヶ瀬町史 五ヶ瀬町役場 昭和56年発行
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