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御霊神社に御用心
高千穂町向山地区の稗の上集落には高千穂八十八社の1つである御霊神社があります。
御霊信仰は不慮の死を遂げた貴族の怨霊が祟る事により、疫病、さわりが流行すると信じられ、その災厄から逃れようとその怨霊を鎮める為に『御霊神社』の名称を付して祭祀する信仰です。
※ みちしるべ こんな高千穂いかかですか
佐藤光俊著より引用
三田井親武には男子の子供が5人いました。
長男と次男の親長と親町は共に討死していまい、残されたのは三男の鎮信(しげのぶ)、四男鎮氏(しげうじ)、五男鎮武(しげたけ)の3人と娘でした。
よって、家督は三男の鎮信が継ぎましたが、心弱く将の器ではないと残された家臣たちは思っており、弟2人の方が信頼されていたようです。
鎮信には賢臣は離れ、佞臣(ねいしん)に取り巻かれていました。
佞臣とは心邪な臣下の事で、鎮信に弟の鎮氏に謀叛(むほん)を企てていると讒言(ざんげん)し、それを信じた鎮信は鎮氏を仲山御所内の水牢に100日あまりも押し込めてしまいます。
そこで、高千穂神社の別当寺である一王山神宮寺の僧が事態を案じて、鎮信に「それは思い違いかもしれないから、高千穂神社の十社大明神の前で異心の無いことを誓約させたら」と進言すると、鎮信はそれを聞き入れ水牢から鎮氏を出します。
馬に乗り三田井家の一族としての正式な行列は華やかに規式とおり高千穂神社へ向かいます。
ところが何を思ったのか鎮信、家臣の折原美濃守に殺すよう命じます。
困った美濃守。
心乱れているところ、飯干但馬守は斬りかかり、鎮氏は交戦したが、御橋の中程の川上の中滝に馬から飛び降り様に長柄の槍で突き落とし首を取って鎮信の実検に供えたとの事です。
この鎮氏にはお亀という相愛の娘がいたが、最期を聞きつけ自らも御橋から身を投げ後追い心中を遂げたと言います。時に鎮氏28才、お亀18才であったそうです。
御橋は高千穂峡のおみやげ屋さんと水族館の間の橋です。
さて、五男の鎮武も家臣の信頼も厚く、大将の兆しありとのことでしたが、鎮信、三ヶ所村坂本の侍、裏野兵部と長原(おさばる)七兵衛等7人の侍が鎮信に取り入ろうとし、再び彼らの讒言を鵜呑みにしてしまいます。
鎮武は自決を覚悟し、三田井家の菩提寺である義雲寺には兄と一緒になるため菩提所は長福寺にしてくれと言い残し切腹したそうです。
時に26才。
なんとも悲運な出来事でしょうか。
鎮武を子供の頃から養育して乳母が近くにいましたが、鎮氏と同じように死を聞きつけ、悲しみのあまり、高千穂峡の渦巻く水に身を投げました。
結局、鎮信も反省の色もなく、酒色にふけり、不摂生が祟ったのか病死してしまい、鎮信の奥方は豊後の入田氏の娘ですが、女児1人で男子なく三田井本家の血統は絶えてしまったのです。
鎮氏を討った飯干但馬守は主君を斬った天罰か、その後病気で苦しんだ為、鎮氏の祟りであろうと恐れて、この御霊神社を建立し、菩提を弔ったそうですが、その天罰で子孫は絶えてしまったと言います。
主祭神は三田井鎮氏と亀の二神です。
この社の棟札の1番古いものによると鎮氏が亡くなったのは慶長元年であり、慶長9年とあるので、殺されて8年後最初に建立し、願主谷河(現在では谷川)一族が供養したものと考えられます。
たしかに、ここをお参りしている際、近所の方にお参りしていることを伝えるとお礼を言われました。
この方は確認はできていませんが、谷川さんという方かもしれません。
代々大切に祀ってきたのかもしれませんね。
いずれにせよ、千何百年と続いた家系を誇った三田井氏も終わりは悲惨なものとなってしまいました。
血筋こそ違うものの、向山の教願寺の住職は三田井氏であり、名前が残っていることは嬉しく思います。
参考文献
高千穂村々探訪 甲斐畩常著
高千穂太平記 西川功著
みちしるべ こんな高千穂いかがですか 佐藤光俊著
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