高千穂郷八十八社日之影編
四拾九躰妙現、一水神社。
高千穂から日之影へ向かって、平底トンネルを抜け、今トンネル工事をしている入り口を越えすぐ左に曲がり、道なりに左手に走っていくと一の水集落があります。
『三毛入野命』が『鬼八』退治の際、路傍の清水をすくって飲まれたところ、「珍」なり、『一の水』!!と言われた事により、この地名が起きたと云われています。
よほど、美味しい水だったのでしょう。
妙見信仰の一つで、祭神は菅原道真と日之影町で唯一の『瀬織津姫』を祀っているといわれています。
天神様は雷除けの為に造られるそうで、ここは以前は『天満宮』と称されていましたが、明治4年に『一水神社』となりました。
上り龍、下り龍が2つ並んでおり、とても立派な彫刻です。
鳥居のしめ縄が低い位置に掛かっているのは何か意味があるのでしょうか??
水も関係しており、清らなか空気が流れている、そんな神社です。
さて、次に向かったのは波瀬地区にある波瀬神社。
高舘商店の手前を左上に上がっていくとあります。
波瀬地区には庚申塚が多い印象、そして青面金剛像も残されています。
『名字大明神』【波瀬神社】
波瀬神社の鳥居の右手には『三毛入野命』に関係するものがあります。
ここも『鬼八』退治の際、休息の為、この境内に立ち寄られ、この石に腰かけたとのことで、【腰掛石】と云われています。
日之影は他に三毛入野命の袴が汚れてしまい、それを谷川で村の人が洗ったということで、【袴谷】という地名もあり、三毛入野命文化が残っている地名が多いという印象です。
元和年間(1615〜1624年)に延岡藩城主『有馬直純公』島原に出陣の際、境内にて召馬が病気で倒れた為に、村人に「ここはいかなる神か?」と尋ね、先程説明したように、鬼八の退治の為に三毛入野命が休息された際、伊邪那岐命、伊邪那美命の2神を形代として『山神』と称して祀ってきたことを伝えると三毛入野は改めて当社を『名字大明神』の神號を賜ったと説明しました。
これを聞いた『有馬公』は召馬の病気平癒と戦捷祈願をされたところ、召馬たちどころに勇み立ち、『有馬公』は島原の戦いにおいて大いに武勲を立てられました。
『有馬公』はその奉賽の為に一夜で内宮を建立され、村人は【一夜建立】の宮として大切にお祀りしていたが、後年焼失してしまい、その後は『牛馬守護の神』として崇敬されています。
次に紹介するのは、竹の原地区にある
『石神大明神』【竹乃原神社】です。
青雲橋を渡ってすぐに左折。
道なりに行くと二手に分かれており、右は鹿川の方面を左に行くとすぐに竹ノ原集落があらます。
道なりに行くと右手にあるのですが、見落としがちなので鳥居を見つけなくてはいけません。
スイッチバックするような感じです。
道も境内も綺麗で整備されているんだなぁと感じます。
享保11年(1726年)、領主『牧野越中守』の許可を受け神名を『石神大明神』と称しました。その後は代々『竹の原』の氏神としてら崇敬し、明治4年に【竹之原神社】と改称しました。
祭神は素戔嗚命、少彦名命、『御神石』です。
神社の左後方にあり、『神明帳』には石は2つに分かれており80年以上前は通り抜けができたが、今では背も横も太ってしまったと記してあるそうです。
そさて、竹の原集落を更に進んでいくと楠原地区があります。
そこにあるのが
『熊野本山三社権現』【楠原神社】
です。
道沿いにあり、分かりやすいです。
参道にはお大師さん関係なのか、仏系の社がいくつもあります。
神仏習合を感じることができます。
更に進んでいきます。
ここで神楽も舞われるのでしょうか?
太鼓と囲炉裏があるのは興味深かったです。
元龜3年(1573年)『三田井鎮宣公』が熊野三所権現を勧請して『楠原』の産土神として尊崇されたとら伝えられています。
建立年は不詳ですが、寛永11年(1634年)に有馬直純公が再興したようです。
今日はここまでにしたいと思います。
参考文献
日本民族発祥の地 高千穂郷八十八社名録
佐藤光俊編集
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