土持氏の最初の居城 井上城
以前まとめた土持一族が築いたとされる井上城を紹介したいと思う。
土持氏についてはこちらをご覧いただきたい。
延岡市にある恒富中学校のちょうど真向かいに『天守山』という山がある。
入り口には案内看板もある。
城郭跡までは、およそ歩いて10分程だろうか。
正確な資料がないため、信憑性にはやや欠けるところもあるが、平安時代末期。
平家の専制政治に世の人たちの不満は爆発。
源頼朝が挙兵することとなるが、平家の全盛期時代より、土持一族は日向の国庁の官司の地位も得て安定した勢力を維持していたようである。
治承元年(1177)の6月、土持栄綱(よしつな)が県(あがた)の城から、新たに井上城を築いたとされる。
この県の城とは、現在の延岡城の場所とは明らかになっていないが、今山八幡宮の場所かもしれないと、荒木栄司氏の日向戦国史で書かれている。
北側には大瀬川があり、裏手は愛宕山がある場所で、栄綱の時代には後に高鍋土持氏を滅ぼした伊東氏との関係も良好で、北側からの侵入を防ぐ方に力を注いでいれば、大丈夫だったようである。
伊東氏との関係が険悪になり、南側からの侵入を防ぐために城を西階城へ移したのは永享元年(1429)、土持全宣(やすのぶ)が築いた。
別名、丸山城で、西階運動公園付近には丸山町という場所がある。運動公園内に城跡があるが、また後ほど。
ちなみに、土持国綱が永仁5年(1297)に築城したという説もあるが、実際には延岡市のサイトの情報によると、田部系図にて、14世紀半ば、南北朝時代であろうということである。
およそ、100年弱程、ここ井上城を居城にしたようである。
城郭跡に行くまで、延岡の産業を育てたという偉人、笠原翁の墓所があった。
途中は仏像群も見られた。
城跡の説明文によると、平常時は延岡高校の西側の高台に居住し、戦時にこの天守山にいたということである。
また、同じ箇所に土持相模守のお墓もあった。
土持相模守のお墓という事だが、実際の場所は不明であるそうで、西側にある法明寺にもこの土持相模守の宝篋印塔がある。名は栄続(よしつぐ)
この人物、天正6年正月、松尾城城主の親成が島津氏との同盟を結ぶため、新年の挨拶に使者として、送った人物で鎧兜、太刀を献呈しているという。
行縢山にて、城主親成と共に防戦するも、この地にて自刃したであろうということである。
左側2つが特に土持氏との関連があるようで、1番左が先ほどの城跡にもあった、相模守栄続の宝篋印塔。
その隣が、栄続の兄栄益(よします)の宝篋印塔。
とても立派なお寺で、開基は土持山城守の子孫でもある中城家であるという。
以前も載せたが、延岡史談会の甲斐典明氏が分かりやすく説明してくれているので、ご覧いただきたい。
参考文献
日向戦国史 土持一族の光芒 荒木栄司著
日向戦国武将物語 土持戦記 佐野量幸著
高千穂太平記 西川功著