鬼八についての最終考察その③
十社大明神こと正市位様は富高(現日向)より、日之影、高千穂へ、帰ってこられたとある。
『日向の国戸鷹』より高知尾に御登りなさる。
※ 旭大神文書より
これは、何を意味するのか!?
大宝律令として宇佐領は宮崎県北部もその領内に入っていたのだが、その神官を務めたのが、宇佐氏、大神氏、漆島氏、田部氏である。
しかしながら、田部氏は宇佐神宮史に神官を務めていた記録はないそうで、郷土史家の田尻隆介氏は事務関係をしていたのではと推測する。
そして、縣(現延岡)を任されていたのは、土持氏。
その土持氏は姓は田部なのである。
姓とは(かばね)で天皇からいただいた称号であり、その田部から分かれたのが土持であるならば、沿岸部から上がって来たことが納得がいく。
また、日向を任されていたのは日下部氏。
文治三年(1187)、日下部氏は新納土持冠者栄妙(宣綱)を養子として所領を譲ったとある。
時系列的にもそう捉えてもおかしくないと思う。
日之影町には三毛入野命の伝承地が非常に多い。
しかもそれは見立方面から七折地区に限ってである。
恐らく、豊後より山を越えて来た種族、大神氏がその制圧をしていった形跡であろう。
つまり、山から大神氏、海から田部氏といったところであろう。
日之影町での大雨を降らすなどの呪術の伝説は最初の戦いであり、修験者でもある一派なので、呪術も使うが、敗れてしまった。
それで、伝説化され、それが伝承していったことだろう。
唯一、深角が高千穂八十八社に入らないことや鬼八伝説がないことは、十社大明神の右大臣、富高氏(岩戸土持氏からの流れではない)は大神派であり、この地を任されていたことであろうと思われる。
高千穂皇神が十社大明神といわれるようになったころから、高千穂4祠官おられ、上野の田部氏、岩戸の漆島、七折の富高、岩井川の丹部であったという。
また、日之影町諸和久(諸白)地区があるが、尾形さんという方がお祭りしているところが、大神杜女の墓ではないかと言われている。
十社大明神の乳母である伝説もあり、昔は高千穂神社の祭りには、この諸和久まで御神幸し、お墓参りをしていたそうなのだ。
ちなみに昭和32年に途絶えている。
この事からも、大神氏との関連性が日之影町には深いのは、山を越えて来た流れからであろうと思う。
さて、話は高千穂神社へ。
高千穂神社創建は垂仁天皇時代という事で、2000年ほど前になる。
従四位上に認定され宮崎で一番高い位をいただいたが、明治には村社扱いとなってしまう。
この件についてはまた改めて紹介したいと思う。
以前noteにも書いたが、大神大太惟基の長男政次が高千穂へ養子として入ってくるのは940年頃。
高千穂神社の神官を務めた田部氏の初代もおよそこれくらいと計算上なり、旭大神文書の鬼八退治に登場する十社大明神のお供若丹部定重と同一人物であろう。
現在高千穂神社周辺を【あららぎの里】という。
漢字で書くと【荒良木】。
これを荒【こう】良【ろ】木【き】と読むのではないかと言われる。
荒良木とはなんと、イチイの木のことらしい。
また、この荒良木は興呂木と同語ではないかという見方もあり、あららぎの里とは、現在の荒立神社から高千穂神社周辺までを言ったのではないだろうか??
ということは、本来十社大明神になる前までは興梠氏が神官を務め、また荒立明神に関しても興梠氏が神官をしていた。
興梠は名を『三田井』と名乗り、元の興梠氏と共に高千穂を守ってきたのであろう。
これが、大神政次が養子となる前の旧三田井氏ではないだろうか??
要するに、名を変えた三田井氏と興梠氏に分かれた。
南北朝時代、三田井氏の流れである芝原又三郎は後に興梠に名を変えている。
これは旧三田井氏の流れからくる本来の興梠に戻ったのであろうと西川功氏も考察しておられる。
つまり、鬼八伝説が生まれる始めの争いは、この旧三田井氏(興梠)、興梠氏と田部氏の争いと思われる。
十社大明神と鬼八の争いも最後に切ったのは丹部なのだから、田部が主役となってもおかしくない。
田部氏は宇佐では神官はしていなかったので、大出世であっただろう。
豊後大神氏はリーダー的なもので、田部氏と共に旧三田井氏を倒したのが、本当ではないだろうか??
神漏岐山には興梠一族がおり、3000人ほどの一族がいただろうから、大神、田部両氏にとっては、呪術も使い、鬼に見えたことだろう。
室町時代の十社御縁起に出てくる、鬼、えなきとは、倒した側からの敵に対する活劇にするための表現であろう。
また、鬼八の別名「きはちほし三千王」というのは、沢山いたということを物語っている。
そして、敗れた。
日本人は一族全てを抹殺することはしない。
その事からも、うのめ姫が助け出されたのではなく、興梠氏と婚姻関係を結び、高千穂を治めるということで、名を『高千穂太郎』と名乗った。つまりは、地元民である興梠氏と同盟を結んだ。養子として名を変えた訳ではなく、高千穂を支配した現れであろう。
後に三田井氏としたのは、時代の流れからでその流れの意識は薄れ、三田井という範囲をもう少し狭め、それぞれの土地を名乗っていったのであろう。
※ あくまでも、私の考えである。
ちなみに、今の祭神、三毛入野命と名が出てくるのは、江戸時代。
荒立神社の創建も不明で、荒立神社として猿田彦大神、天鈿女命を祀ったのは、だいぶ後だろうと思われる。
修験の流れ、天狗信仰の流れ、山繋がりによって、神との繋がり、猿田彦大神と天鈿女命を祀っていったのではないだろうか?
天文16年の棟札に書かれているには、まだ三毛入野命と考えられていないようで、江戸後期に相当な祭神異動がみられたということだ。
鬼八の祟りを鎮める為に始まったとされるししかけ祭り。
日之影町大人から猪を捧げるようにしたのは、当時の中崎城主、甲斐宗摂。
なんと、ししかけ祭りで使う道具に荒立神社の名前があったそうなので、荒立神社とも関連があるようだと荒立神社宮司から聞いた。
また、日之影町徳富地区に猪を捧げた場所と思われる跡地が残されている。
その時、思ったのは、ししかけ祭りは本来日之影町の徳富で行われていた。
いつの頃からか、今現在の高千穂神社でするようになったのではないか??
私は荒立明神とは、荒ぶる神。
高千穂神社本来の正市位様の荒神、荒御霊を祀ったのが始まりではないかと考えた。
本来の高千穂神社祭神=イチイの木→荒良木→正市位様
それが鬼八と結びつき、鬼八を鎮める為に、急いで建てた。よって今の宮は、猿田彦大神と天鈿女命が結婚し、建てた場所ではない!!
鎮魂のためだったのだ!!!
※ 小手川善次郎氏の『高千穂の民家』には、荒立宮は宮地を遷ることにより、「新立」となったと記載されている。
つづく
参考文献
小手川善次郎著 高千穂の民家 他歴史資料
安在一夫氏考察 かるめごより
甲斐畩常著 高千穂村々探訪
西川功著 高千穂太平記
竹田恒泰著 怨霊になった天皇
十社旭大神文書
十社御縁起
日之影町史
高千穂町史