土持氏の次の居城 西階城
「延陵世鑑」(白瀬永年による歴史書 1799)によると、永享元年(1429)、土持全宣(やすのぶ)は、約100年間拠点にした井上城より宝坂城(西階城)へ移ったとある。
約16年間居城したという。
また、「延陵旧記」によると、土持日向守、大貫村に西かいの城を築城し20年居城したと記されている。
どちらにしても約20年という短い期間であったようだ。
災難が多く、松尾城へ移ったということだが、五ヶ瀬川と大瀬側に挟まれた立地であるから、その河川を外堀とし、外敵から防ごうとしたと思われるが、現在でも台風や大雨による水位上昇、水害も発生していることから当時も水災害に悩まされ、松山町の松尾城への移転を決めたと思われる。
現在の西階運動公園敷地内にある。
内堀として掘られたと考えられる「金堂ヶ池」があるが、手前には水神様も祀られており、後世に灌漑用水として作られたものか不明であるという。
現在でも堀切や曲輪が残っている。
特に案内看板もないので、私自身悩みながら歩いたので、このYoutubeを観てから、また改めて見に行きたいと思う。
※ 延岡史談会の甲斐典明氏の解説をご覧いただきたい。
城跡碑を発見。
この上部に本丸跡があるようだが、この日はまだ分かっておらず、私自身はまだ見ていない。今後の楽しみにとっておこうと思う。
この西階城、一般には西階、または宝坂城と呼ばれているが、松尾城へ移った後、この西階城の番将を務めた中城氏先祖付けには「丸山城」と記されており、土持一族間では「丸山城」と呼ばれていたようだ。
現在でも延岡市には丸山町という地名がある。
松尾城へ移った後も、西階城は機能していたと考えられ、「中の城」と呼ばれていた。
その名を名乗ったと思われる中城氏は西階城を築いた全宣から3,4代前の頼宣の弟で紀伊守を称したという宝善という人を祖とする氏族であるというが、その本名は不明であるという。
前回井上城の紹介の際に載せた法明寺が菩提所となる。
法明寺
その後、土持宣綱が松尾城を築城し、そちらへ移転する。
土持氏最後の居城松尾城はまだ行けていないので、それが実現した際に、またまとめてみたいと思う。
【参考文献】
日向戦国史 土持一族の光芒 荒木栄司著 1989
日向戦国武将物語 土持戦記 佐野量幸著 2008
延岡の歴史と文化財 延岡市教育委員会 1979
まんが のべおかの歴史物語 延岡史談会 漫画 しいやみつのり 2020
増補版 高千穂太平記 西川功著 1987
(ネットより)宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱから 中近世の縣(延岡)の城郭 甲斐典明特論 宮崎教育委員会 1999