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内なる炎
心が常に穏やかであればいいのに。
本気でそう思う。
色んな事を受け入れて諦めて笑っていたあの頃は楽だった。
それが自分なりの「答え」だと信じていた頃。
それは一瞬で終わってしまったけれど。
いつも私の傍にはクリエイティブな存在があった。
様々なそれと近付いては離れるを何度となく繰り返し、いつしか「そういうもの」なのだと思うようになり、それでも恐れていた。
「またいつものように終わるのではないか」
私は中途半端な存在だ。
みんな「よりすごいもの」、「より面白いもの」に惹かれる。
かくいう私も同類である。
一体あの人たちは私に何を求めていたんだろうと振り返る。
答えは簡単に出る。
「刺激と安らぎが同居するもの」
常に刺激的でなくてはならず、同時に必ず肯定してくれる存在であるべきだった。
それは寄り添いとは違う。
だから空気を読もうとする私は飽きられやすかった。
「未知の生き物」
UMAか何かであれば良かったのだろうか。
期待通りに期待外れでなければならないとはなんとも難しい。
いや、期待を超えなければならなかったのか。
理解者である事を求めたのはそちらであるのに、というのが私の言い分なのだけれど。
何故今になって過去を思い返しているのだろう。
同じ轍を踏まないためだろうか。
自分らしくいればそれでいいはずなのに。
逆にどんな私でも受け入れようとする存在はいる。
そしてそういう人たちに私は興味が無い。
つまりそういう事だ。
ああなるほど、こうして書き出すと頭が整理される。
やはり文章はいい。
適度な距離感で自分らしく突き進む人たち、そういう人たちが好きだ。
私の顔色を伺う人間じゃない、そんな事は関係なく自分の人生を歩み行動を起こす人。
でも仲間であり友人である人。
簡単なようで難しい。
私を好きでいればいるほど私は離れていく。
私が好きでいればいるほど誰かは離れていく。
この現象が人生で何度となく繰り返されている。
つまり依存せず自立した人間が好きという事だろう。
そしてその相手がクリエイティブなら尚良いと。
私が失いたくない六畳は依存と自立が混在している。
何年も掛けて作り上げた混沌がある。
思い込みを確信に変えるまで費やしたのはそれまでの人生そのものと言えるだろう。
そして最期に帰結するのだろう。
何の話をしていたかな。
いつもこうなる。
何を言おうとしていたのか書きながら忘れている。
湯船に浸かって一時間以上経った。
すでに温くなった湯が逆に心地良い。
何かオチはないかと考える。
文章を書く上で「起承転結」の概念は持っているものの、どうにもこういう書き方だと「結」が疎かになってしまう。
強いて言うなら「自分らしく突き進む事こそその人の魅力」という答えが出たのは大きい。
そして願わくば穏やかで、内に消えることの無い炎を燃やしていてほしい。
そして私自身もそのような人間でありたいと願う。
願うのではなくそうあるように。
既にそうある事を忘れぬように。