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証
作ることが好きだった。
考えることは苦手だった。
何かに対するアイデアは頭の中に浮かんでもそれを形にするという選択肢を知らなかった。
最初は文章、ブログ。
読んでくれる人を笑顔にしたくて面白おかしい文章を書いてた。
「いつも笑っちゃう」
「笑顔にしてくれてありがとう」
そんなコメントが嬉しかった。
そんな中、ずっと昔のとある4月。
心身共にズタズタになる事件があった。
それからどう頑張っても面白おかしい文章が書けない。
文章全体が暗く淀み「である」、「そう思う」という言葉を多用するようになった。
読者も友人も沢山離れていったブログは今はほとんど更新されていない。
たまに書くのは誕生日と年末年始。
それだけは欠かさず書いている。
先日久しぶりにブログを更新した。
その記事についた「いいね」に懐かしい名前を見つけた。
昔、少しだけ関わり私の考え方は危険だとはっきりと伝えてくれた人物。
詳しいやり取りは覚えていない、ただ印象が残っているだけ。
「久しぶりだね、元気してた?色々あって今は画家として活動してるよ。もう前みたいに死にたがってないよ。攻撃的ですらない。広い世界と多くの意見を知ったんだ。変われたんだ、少しだけ強くなったんだ」
そんなことを伝えたい気持ちになった。
そう、色々あり過ぎて何を伝えたらいいのかわからなくてメッセージを送るのをやめた。
当時の私はこれ以上傷つくことを恐れてとても攻撃的になってた。
他人が怖くて他人が居る空間では息苦しくて逃げ出すくらい怯えてた。
虐待を受けた犬みたいにいつも威嚇してた。
何年もかけて割り切って立ち直って、今は独学で絵を描いてる。
その中でも感受性の高い人に好評な絵がある。
ありったけの怒りと悲しみをぶつけた絵。
「まともに見れない」と言われたこともある。
私の描く絵は私の中身。
抽象画だからそれが嫌でも滲み出る。
「変われたんだ、少し強くなったんだ」
本当にそうだろうか。
ただ押さえ込んでいるだけな気もする。
押さえ込んでいる「何か」を描いている気がする。
それが現状の原動力のひとつであるなら失うわけにはいかない。
痛くて、苦しくて、悲しくて、叫びたい。
ああそういえば子供の頃からそうだっけ。
鈍感であろうとした幼少期、痛くて悲しくて、大人になったら怒りと苦しみが追加された。
別に「何か」を見せびらかしたいわけじゃない。
ただ少なくとも私が生み出すどの作品も高尚な物にはなり得ないだろう。
作り手が出来損ないなのだから出来損ないが生み出される。
それは穴だ、何をしても満たされない穴を何かで必死に満たそうとする行為。
日々の生活においても何かをしていないと耐えられない。
私は残りの人生をかけて埋まらない穴を埋めようともがくだろう。
苦しいよ、人並みの幸せなんて無い。
でもそれでいいと思ってる。
息をしなければ生きられない。
息をするのをやめた時、私の人生も終わる。
私が遺す作品が私の生きた証になる。
だとしたら私が描いているのは私の人生なのかもしれない。
なんて重くて軽いんだろう。
人の手を渡るのにぴったりだ。
できるだけ多くの人にこの重くて軽い物を届け続けたい。