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愛とか呪いとか。(1) 母のがん闘病記、みたいなもの。

去年、このことを書こうと思う日が何度もあったけれど、伝え方がわからないのでやめておいた。

でも、そもそも伝え方がある話なのかわからなかった。
感情の起伏はいつもあって、どこかで書かないともうだめだと思う日も、次の日になればもう大丈夫だと思ったりして、いつも書くタイミングを逸し、いつの間にか年を越して、今日になる。

なので、何があったわけでもないけれど、書き方を考えることをやめて思うままに書くことにした。つらい日はどうしてもつらいし、思ったより楽な日は思ったより楽。たぶんそういう些末なものが積み重なって、いつか楽しい思い出にもつらい思い出にも悲しい思い出にも、ゲラゲラ笑える思い出にもなるんだろうと思う。とりあえず、ちょっとの思考と大いなる「まあ書いとこう」の精神で書くことにした。

ここからずっと、もはやどこにでもある話。



もしかしてあまりないことも我が家にとって日常


母が左足に感覚がないといって、4ヶ月ぶりのひょこひょこ歩きで家から出てきた。午前7時半。1月、昼間は暖かい日が何度かあっても、毎日早朝と夜は寒い。母の歩き方を見ながら、今日は長丁場になりそうだなあと思った。母の様子は、入院したばかりのときと似ていた。

去年の9月18日、母が緊急入院した。日にちは今でもしっかり覚えている。妹とスペイン旅行から帰ってきた当日のことだった。

帰ってきたよ、とLINEを送ろうとしたら、まだ飛行機が飛んでいた時間帯に母から連絡が来ていた。「お母さん、ずっと調子悪いって言ってたけど、頭に悪いものがあったよ」。

母はここ数年、どこが痛いだのなにが調子悪いだのと言って家族の心配を買おうとする悪癖を発症していて、なのに、早く病院行きなよ、と言われてもなかなか通院しようとしない、そういう厄介な老人になっていた。母は62歳。世の62歳が老人と言われたら怒るのだろうけど、母はここ数年でいきなり老けた。

私は10年くらい前から明確に母が嫌いだと認識して、5,6年は家族が心配するほど母とは冷戦状態だった。妹がダリの別荘からビデオ通話したときも、やれ今日はどこが痛いだのと言っていて、こっちの話なんか聞きやしなかった。そんな母が死ぬほど嫌で、だから羽田についてLINEを見ても「曖昧な言い方してないで病名を言え」とつっけんどんだった。

母は悪性脳腫瘍だった。

悪性とわかったのはその後の検査によるもので、最初の診断は脳腫瘍のみ。でも医者曰く、たぶん悪性で間違いないだろうということだった。西から東に帰ってくると時差ボケがつらいというけれど、帰国後は母のことでてんてこまいで、時差ボケなんて感じている余裕はなかった。バルセロナ旅行の記憶は消えた。思い出したのはずっと後、母がなんとか持ち直して退院して、みんなでスマホの写真を見返してからのことだ。

母は2つの病院で入院と転院を繰り返し、結果、原発は肺がん、それが脳に転移して脳腫瘍になったということがわかった。転移した肺がんはもうステージ4だそうで、手術はできず、薬で抑えるしかない。

詳しくは割愛して、9月に入院した母が退院できたのは11月の終わり。夏が秋、もはや冬になっていて、久々に外の空気をちゃんと吸った母が、夏じゃない、と言っていたのを覚えている。11月だということはちゃんとわかっていたけれど、四季のない病院の空調だけを頼りに、はめ殺しの窓の換気口から流れてくる風が冷たくなってきたことぐらいでしか外気を感じることができなかった母には、夏が移ろった感覚がなかった。

母の病気はもちろん、入院も突然で、転院も突然で、治療法が変わるからといって同じ病院内でも病室が変わったり、予定がまったく立てられなかった3ヶ月だった。幸いなことに我が家には長期入院を経験した者がいなかったので、不幸なことに母の入院にあたってなにが必要なのかまるで検討がつかなかった。母がようやく自分の入院生活に慣れてきて、あんなものが欲しい、こんなものが欲しいと注文してきて、それをサポートする側の人間が母に言われる前に気づくようになったとき、母の退院が決まった。

退院しても母の通院治療は続く。3週間スパンで投薬するのに加え、なにか体に異常があったらすぐ病院に電話して、要請されると通院しなくてはいけない。最初に緊急入院した際には脳神経外科の医者にかかっていて、その先生からは「病気と付き合っていく」ということを言われた。こういう予測不可能ばかりの毎日が病気に付き合うってことなんだろうな、と今は実感を伴っている。



天然ボケか病気の影響かわからん


朝、病院へ行く道を車で走っていると、母が隣で「今日の夜、もしApple Watchつけてたらあんたんとこに連絡いってたかも」とにやにやしながら言った。私は去年、退院祝い兼クリスマスプレゼント兼2月の母の誕生日プレゼントということで、Apple Watchをプレゼントしていた。

「なんで」
「転んじゃったから」
「え、なんで」
「朝方トイレ行きたくなって、行ったら、帰りに足もつれてころんだ」

母は最初に伝えたいことを言わず、ひとに「なんで?」と聞かせることから始める話し方をする。私は母の、自分に興味を持ってもらいたいがためのこの話法が嫌いだ。だけど病気をしてから、あまり気にならなくなった。不思議だ。

母が転倒したのは緊急入院していたとき以来で、その頃はよく足がもつれていた。そのたびに、私よりずっと細いナースさんたちがどこにそんな力が眠ってるんですか、という勢いで、母の体を支えて、抱っこしてくれた。

その日の母のメニューは採血、採尿、呼吸器内科の診察。母の症状を見ていると脳腫瘍の方も気になったので、脳外科か脳神経内科もかかる気がしていた。朝イチで病院につくとまず採尿を求められた。私はすぐ、足がもつれたことを思い出す。なので「採尿できるの?」と聞いたら母は、

「大丈夫。出る」

と答えた。

いや、あんたの足がちゃんと動くか聞いたんであって、膀胱に溜まるもん溜まってますかって聞いたんじゃないのよ。

母にはもともと、こういう天然なところがある。

医者に母の左足のことや転倒のこと、そして、数日前から気になっているちょっとした記憶違いのことを話した。私事だが私もちょっとした病気(良性)で同じ病院にかかっていて、手術を控えているのだけれど、診察に行ってくる、と言って帰ってきた日に母から「手術どうだった?」と聞かれる、などといった噛み合わなさが目立つようになっていた。

母が診察券などが入ったファイルを医者に手渡して、最近の症状について話していると、母がいきなりカバンをひっくり返す勢いで掻き回し始めた。

「どしたの」
「先生に診察券渡さなきゃ!」
「あ、もうもらってますよー。なるほどこういう記憶違いがあるんですね」

実演せんでくれ。
ちょっと、いやかなり恥ずかしかった。

膀胱の件といい、母はLINEの送り間違いとか言い間違いとかが頻発する人間だ。〜時から会議があるから病院終わったらすぐ帰ろうね、と私が言っても、数分後には、病院疲れたしこの後一緒にごはん食べよう!お母さんごちそうするよ!という感じで言ってきて、これが天然ボケなのか頭の腫瘍のせいなのかがまったくわからないのでタチが悪い。



楽しみはごはん


そんな母の唯一の楽しみはごはん。メシ。お菓子。おやつ。幸いなことに、これはもう本当に幸いなことに、母にはまったく食事制限がない。それどころか、医者には絶対に痩せないでください、と言い含められていて、食欲の赴くままに食べまくっている母は緊急入院する前と比べて二周りほど太った。

ただ、楽しいごはんにもつらい思い出がひっついてくる。むしろ楽しいのと背中合わせでつらくなって、楽しさとつらさが比例して大きくなる。

今年の正月。年末なんてすぐ来ますよ、と緊急入院のときに医者から言われていたけれど、たしかに母が退院するまでは怒涛の日々で疲れ果て、けれどそこから正月まではちょっと長かったように思う。というのも、12月から1月、たくさん控えていた冬のイベントに、私たちは食卓を囲みながらいつも思っていた。

これが最後のクリスマスかもしれない。
これが最後の正月かもしれない。

そう思うと、これが最後かもしれないんだからとびきり贅沢なことを、なんて思って、いつもは買わない高額なクリスマスケーキを食べたり、年末の年越しラーメン(我が家の年越しは蕎麦ではなくラーメン)も二店舗くらい回って麺やスープを買って食べ比べしてみたり、年賀の上生菓子をいつもは1セットだけなのに家族分買ってみたり、はたから見たらどんな富豪だよ、みたいな食卓が毎日のようにできあがる。おかげでこっちまで太った。

おいしいし、楽しいし、冷戦が嘘みたいにみんなで笑っているけれど、いつも思う。私たちはあと何回、母とごはんを食べられるんだろうか。

診察の順番を待っていると、車椅子に乗った母がこちらを振り向いた。

「前に言ってたおいしい鰻屋さんってなんだっけ」
「どこの?」
「静岡の」
「鰻丸?」
「ああ、そうそう」
「食べたいの?」
「いや、なんか思い出しただけ」

母は買い替えたばかりのスマホで、ちくちくと鰻屋を調べていた。

私や妹はそういうのをちょっとずつ拾って、その日その日の母の食べたいものを考えるようになった。その日の夕飯はひつまぶしとお吸い物。冷凍庫にふるさと納税のうなぎが残っていてよかった。

この前はタコと大葉の和風パスタ。その前は妹が作り置きしてくれたロールキャベツ。みんなでおにぎりを握りあって、3合分はいくらやかずのこやウニと正月の残り物をタネにしたり、2合分はあっさり塩おにぎりにして、ぜんぶ平らげた。

おいしーい、と私たちは笑う。いつでも、これが最後の、全員そろっての食事になってもいいように。


(まだ、最後ではない)


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