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一生、届くことのない言葉(2011年6月27日の久保マシン)


10年前の今日
2011年6月27日の久保マシン


まず、最初に当時のボクが抱えていた状況を記しておこう。

ボクは都内で仕事場も兼ねた自宅マンションで、相方とマンガの仕事(個人の仕事&ユニット「久保マシン」としての仕事)をしていた。そして、比較的、近所(同じ区内)の都営住宅にボクの両親は二人暮らしをしていた。母は身体に障害を持ち、車イスでの生活だった為、父がいることで両親の生活は回っていたのだった。

2009年、そんな父に末期癌が見つかり、ボクと相方は仕事をしながら親の介助をするという生活が始まっていた。だが、週刊連載や月刊連載、不定期なイラストや書き下ろし書籍の仕事等もこなしながらの親の介助は、当然、楽ではない。

というか過酷だった。

そんな生活が2年も続き
父の主治医からは
『いつでも、その時が来てもおかしくないので
覚悟だけはしておいてください』
と言われていたのだった…。


その日、ボクと相方は午前中から「その日が締め切り」のマンガ原稿を描いていた。(担当編集者からは、その日がデットラインと言われていた)

そんな時、末期癌の父が入院している
病院の看護師さんから電話が入った。


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ボクは「仕事が終わり次第、会いに行くから」との
父への伝言を看護師さんにお願いして仕事を急いだ。

だが、昼過ぎに再度、病院から電話。

父の容体は急変したというのだ。


そして…



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駆けつけた時には、父は亡くなっていた…



これが2011年6月27日の久保マシンである。



この時のことを相方はずっと「あの時どうして病院へ、お父さんのところへ行って!と言えなかったのか」「それまでは、いつも親を優先してたのに…」と、父を一人で逝かせてしまったのは自分のせいだと後悔していた。


だけど、相方のせいではない。
最終的に判断したのはボクなのだ。


ここでは書かないが、あの時どんな思いで相方がそう言ったかはボクはわかっているし。あの時どれほど相方が、いろいろなことでメンタルの限界が来ていたかも。

そして、どうかしたら
ボクよりもずっと相方の方が親のことを
親身になって考えていたかもボクは知ってる。


ただ、それとは別に、ボクが父の最後の言葉を聞いてあげられなかったこと。最後の言葉が一生、届かない言葉になってしまったことは、いつもボクの心のどこかにあって忘れることはなかった。


あれから、ずっと父に手を合わせる時は、いつも心の中で
「あの時、何を言いたかったんだよ」と問いかけていた。

で、話はココからなんだ。

先日、行った父の10年の法要(コロナだからメッチャ小規模だったけど)の時に、何となく父の若いときの写真でも列席の身内に見せるといいかな〜と思って、法要の前日に父の昔の写真をiPadの中に入れてる時、

突然、父の声が聞こえてきたのだ。

いや、違うな。
生前、父がボクによく言っていた言葉が浮かんできただけだ。

いつも仕事に追われていたボクは
何かにつけて父に「そんな暇はない」
「締め切りがあるから無理」
「仕事があるからダメ」みたいなことを連発していた。

だからボクは父には
いつも、こう言われていた。


「嫌な仕事だなあ〜」



でも、それは正しい。当時の、常に締め切りに追われて、非人間的な生活を強いられてるような仕事は、間違いなく嫌な仕事でもあるのだ。他の人は誰もそんなことは言わない。大抵は「でも、マンガで食べてるんだから凄いよ」とか「ホントに大変だよね」とかだ。

だから父のその言葉は、
あまりにも率直すぎてボクは面白かったのだ。

そして、その言葉が浮かんだ時、
ずっと気になっていた、あのことに繋がった。



10年前のあの時、病院のベットで
立ち尽くすボクを父は見ていたはずだ。


そして「仕事が終わってから行くから」と伝言だけしてきて、肝心なときに間に合わなかったボクに呆れながら、こう言ってたはずだ。



「嫌な仕事だなあ〜」



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そう思ったら、なんだか「ふふっ」っと笑えてきた。
いや、もちろん父が元々ボクに言おうとしたことは
別のことなのは分かってるけど、
もう、それもいいや!って(笑)


10年経って、こんな父の言葉が浮かんできたのは、きっと、面倒くさいことが嫌いだった父が『いつまでも意味のね〜こと(一生、届かない言葉とか)ゴチャゴチャ考えてんじゃね〜よ!』って言ってるんだと勝手に思うことにした。


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(写真:ボクと父)


最後に。父が亡くなった数日後に書いたブログが残っているので、その文章をコピペしておく。このnote記事の冒頭部分は端折って簡単に書いてるけど、その他は当時の凄まじい状況がよくわかる。


それは先月の6/27は週刊連載の締め切りの日だった。
前日からの徹夜作業で、この日いっぱいで原稿を仕上げる予定だった。

午前中に父が入院しているA病院から連絡が入る。

父が食事の後、もどしたりして状態が良くないので
先生が話をしたいということと、父がボクに話があるので
会いたがっているので病院に来られないかとのことだった。

父の末期癌が見つかってから今日まで、締め切り日であっても
父と一緒に病院に行かなければならないこともあったし
主治医のY先生に呼ばれて病院にかけつけることも何度もあった。

でも、この日は仕事の方の進み具合からして
作業の中断は、かなりまずい状況だったのと
電話での看護婦さんの話しで父の容態は緊急を要すると
いうわけではないということから判断して(多少、迷ったけど)
病院に行くのは仕事が終わってからということにして
父にも仕事が終わり次第会いに行くから…と
伝えてもらうようお願いしておいた。

が…数時間後の昼過ぎに、また病院から電話が…
父の容態が急変した。

点滴を受けている最中に段々と意識が薄れて行ったらしい。
そして、そのまま容態が急変。意識が完全に無くなったそうなのだ!
すでに脈がない状態なので、すぐに病院に来てほしいとのこと。

エエ!?
脈がないって死んでるってことじゃないのか!?
まさか、そこまで急変するなんて…!!
さっき連絡があったとき
すぐに駆けつけていれば間に合ったのに!!

とにかくボクは仕事を中断してバイクで病院へ駆けつけた。

だが、ベットの上の父に
「お父さん…オレに何を言いたかったんだよ」と聞いてみても
もう、その答えは永遠に聞くことは出来ないのだった。   

しかし、それからが大変だった。

喪主として葬儀の打ち合わせが夜までかかり…
仕事の締め切りは事情を話して
翌日の昼まで延ばしてもらい
徹夜作業で仕上げる。

もっとも仕事を上げる時間が持てたのは
通夜告別式が偶然に1日延びたからだった。

その後、すぐにまた葬儀の打ち合わせの続き。
帰宅したのは夜遅く。

それから自分の準備…なんせ仕事の修羅場から
この状況になったので、身支度が何も出来ていない。

相方と共に朝までかかって準備をして
昼過ぎには葬儀を行うホールに向かう。

結局、三日徹夜のまま、お通夜に突入…。

そして翌日の告別式…なんとか相方の協力で
喪主として葬儀を無事に執り行うことは出来たけど
この時点で、もう次の仕事の締め切りが来ていた。
とりあえずは充分な睡眠も取れないまま次の仕事に突入…

その後も、ずっと、そんな状況が続いている。

父が亡くなった後の膨大な手続き…
一人残された車椅子の母の介護問題…
そして、容赦なくやってくる締め切り…

父が亡くなった感傷に浸る余裕など
まったく無い日が続いている。    


まさに「嫌な仕事だな〜」って感じだ(笑)



絵と文:久保マシン(Y)


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