「同志社大学神学部(佐藤優)」を読む
拝啓 奥さんへ
「神学は、人間の役に立たない虚学だ」で始まる本書は、夫の好きな作家の佐藤優さんが学生時代を振り返って学んだことをまとめた本です。虚学である神学を学ぶことによって、人間は自らの限界を知る。そして、その限界の外部に、目には見えないが、確実に存在する事柄があることに気づく。このような外部に存在する超越性のおかげで、人間は自らの狭い経験や知識の限界を突破し、自由になることができる。筆者の佐藤さんは神学の勉強を通じて自由になることができたそうです。
それでは、いつもどおり、気になる文言をピックアップして所感を述べていきましょう。
これは筆者が学生時代(同志社大学神学部)に学生運動に関わったときの経験談から学んだ教訓のようです。これは兵法に通じるところがありますね。確かに弱者が敵(強者でしょう)と効率的に戦うには、正面から戦っては勝負になりません。「非対称」な戦い、自分にとって優位な陣形(形)に持っていく必要があります。これはすべての戦争、戦い、格闘技などに言えることですね。日常生活のささいな口喧嘩などでも応用が利くと思います。
人間を動かすのは、科学ではなく、超越的な何かというのは気になる言葉ですね。一神教であれば、ヤハウェ(YHWH)、イエスキリスト、アッラーなどの超越的な何かが明確なのですが、無宗教?の日本人の場合に超越的な何かとは何か?が気になります。それは人それぞれですので、例えば、神様という人もいれば、仏様という人もいるでしょうし、最近では人工知能(AGI、ASI)という人、それよりももっと具体的なデータを信じるデータ一神教(FACTFULLNESS等)という人もいるでしょう、スピチュアルな何かという人も当然いますよね。いずれにせよ、人間は理性だけでは満足しないようで、超越的なものを信じたがる傾向があるように思えます。
なかなかかっこいいことばですね。キリスト教徒は塩や光の役割を果たす。確かにその通りかもしれません。夫は批評家の小林秀雄が好きなのですが、小林秀雄も批評のことを塩のようなものだと言っていた記憶があります。
最近は、そのような批評家といえるような人が少なくなりましたね。達人や詩人とよばれる人は過去の人になってしまった気がします。時代の流れでしょうか。
これは佐藤優さんが教師から直接指導を受けたときにもらった言葉だそうですが、何か心にささるものがありました。言葉の内容としては、たいしたことは何も言っていないのですが、学生時代は焦りがちです。そんなときに、恩師といえる方から、このような声かけがあると励みになるのではないでしょうか。そして、着実に勉強をしようという気になるのではないでしょうか。教師の役割とは、このような簡単な声がけ、もちろん、その声がけができるようなるために、人間関係を築いておく必要があるのはいうまでもありませんが、コミュニケーションにあるのではないかと思うのです。夫は、大学生の頃に塾講師や家庭教師をしていたのですが、このような心に残るような声がけはできていなかったと思います。いまならできるのかと言われると、ちょっとできるようになってきたかなというところです。まだまだ修行が足りませんが、精進していきたいと思います。
本日は、夫の好きな同志社大学神学部(佐藤優)のご紹介でした。
日日是好日。