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「差異」と「同一性」

拝啓 奥さんへ

養老孟司先生が「遺言」差異と同一性について述べています。

都会は意味で満ちています。すべてのものに意味があると都会人が暗黙にそう思うのは当然です。なぜなら周囲に意味のあるものしか置かないからです。しかも、それを一日中見続けているので、世界は意味で満たされてしまいます。それに慣れ切った人たちには、やがて意味のないものの存在を許さないという暗黙の思いが生じてきます。困ったものですね。

山に行って虫でもみていれば、世界は意味に満ちているなんて誤解をするわけがありません。なんでこんな変な虫がいなければならないんだと思うことなんて日常茶飯時です。感覚所与には意味がありません。世界が変化したということを、とりあえず伝えてくれるだけです。意味は与えられた感覚所与から、あらため脳の中で作られます。

いつだって感覚は働いているに決まっています。ただし、それらの感覚所与は、都市生活では最小限にされます。都市では環境は統制され、できるだけ変化がないようにするからです。第二に、意味を持たないと思われる感覚所与を排除して、意味に直結するような感覚所与だけを残します。そこまで来ると、感覚をはたらかせているという意識すら、ほとんど消えています。夢中になってスマホの画面を見ているということになります。

ガリレオのピサの斜塔での実験は有名です。頭で考えたら、重いものが先に落ちそうです。でも、実際の塔の上から思い球と軽い球を落としてみると、両者はほぼ同時に地面に落ちる。この例で何が起こっているのかというと、意識つまり頭の中では、重い球が先に落ちるが、目で見てみると、重い球が先に落ちるわけではない。すなわち感覚所与が意識に反抗しています。このときに感覚所与を優先しなさいというのが実験科学です。

養老先生によると、虫好きが集まって酒を飲むことがあるらしいです。虫にはおびただしい種類があるので、分類学はそれにいちいと名前をつけて整理します。このとき「分ける主義者」と「分けない主義者」に分かれて喧嘩になるらしいです(笑) 「分けない主義者」は同一性つまり意識を重視し、「分ける主義者」は違いの存在、すなわち感覚所与を重視します。喧嘩になるのは当たり前で、そこに「正解はない」からです。差異と同一性、それは人類の抱える大問題なのです。

例えば、リンゴと言ったとします。聞いているほうが、ああリンゴかと思います。ここで言葉(概念)が成立するために必要なことは、リンゴについてそれぞれ同じことを考えているという前提です。数学的なイコールの世界だけではなく、概念についても、ヒトは意識の持つ「同じにする」という能力に頼っています。英語では下記のように分かれます。

  • an apple

  • the apple

「an apple」は概念としてのリンゴ、つまり頭の中のリンゴ、「the apple」は感覚でとらえたリンゴです。「an apple」は同じリンゴ、頭の中のイメージとしてのリンゴ、「the apple」はそれぞれ違うリンゴ、それしかない独自のリンゴということになります。日本語だと気づきにくい視点ですね。

西洋哲学はプラトンにつけた脚注だと言われます。プラトンが行った議論がヘンなのではありません。冠詞を使っていると、プラトン式の議論が生じて当然ではないでしょうか。ここでの問題は感覚所与と意識の関係です。感覚は違う、違う、これとあれとは違うのいい続け、意識は同じ、同じ、あれもこれも同じにしようと言い続けます。その矛盾こそが、西洋哲学を成立させました。

ひたすら「同じ」を繰り返す学問が数学です。数学者の津田一郎は「心はすべて数学である(文藝春秋)」という本を書きました。なぜなら、数学は誰にでも理解可能だからです。といえば、数学なんて理解できないと反論されそうですが、数学の問題を仮に本気で考えたとすると、ピタゴラスの定理は誰にでも証明できてしまいます。だから、数学は万人に共通で、それこそが普遍的心理ではないでしょうかという数学者の考えです。ここで大切なことは「誰にでも同じように証明ができる」ということです。数学は「同じ」の中心に居座っています。すべてのリンゴはそれぞれ違っているにも関わらず、かならず「一」として「同じ」になるのです。

数学が最も普遍的な意識行為の追求、つまり、「同じ」の追求だとすれば、アートはその対極を占めます。いわば「違い」の追求です。それは直感的に多くの人が気づいているはずです。津田一郎式に表現すると、アートは数学的には誤差に過ぎないとなります。ここまで来ると、「同じ」を繰り返すことで、感覚所与の世界から離脱し、一神教に至ることが可能となります。夫も「一神教とは何か?」を考えている身なので、考えるヒントになりました。

科学上の理論は、しばしば美しいとされます。真理は単純で、単純なものは美しい。しかし、養老先生は反論します。真理は単純で美しいかもしれないけれど、事実は複雑ですよ。感覚所与は多様だけど、頭の中ではその違いを「同じにする」ことができるから、結果が単純になるんでしょと。夫も頭でっかちで「Simple is best」だと思っている節があるので、気をつけなければいけないと思いました。

現在人はひたすら、「同じ」を追求してきました。身の回りの恒常的な環境を作ることに始まり、都市環境を作り、変化しない世界を作ろうとしています。感覚所与を限定し、意味と直結させ、あとは遮断します。世界を「同じ」にしているのです。現在社会・情報化社会は、もともとあった自然の世界に反抗して、諸行無常でない世界を構築しつつあります。しかも、それを推進している現在人の多くは、それに気づいていません。夫は地方で育ったので、都市社会というものがいまいちピンときませんが、車で数十分走ったら海や山に行けるくらいの自然環境は残してほしいなと思います。

より抽象化されたものが「上」だとすれば、「同じ」が上になります。学者が議論すれば、ひとりでにそうなります。なぜなら学者とは「より抽象的に」考えるものだからです。だから神学の世界から自然科学が発生しました。中世の神学が、抽象としていわば行き過ぎたから、近代の自然科学がそれを是正することになりました。その意味で自然科学は「感覚の復権」ですが、科学者自身がいまや階層的な世界に取り込まれてしまったから、事件は感覚の復権だなどとは到底いえなくなってしまいました。いまでは実験室そのものが「意識の世界」に変わってしまいました。

すべての学問は意識の上に成り立っています。それなら意識を考えることは、自分が立っている足元を掘り起こすことになります。学問が意識をタブーにしてきたのは、それが理由だと養老先生は言います。学問こそが、典型的に意識の上に成り立っているからです。しかし、ここまで都市化m、つまり意識化が進んできた社会では、意識をタブーにしておくわけにはいきません。養老先生は「遺言」で意識のタブーを開放しようという、ささやかな試みをされました。夫も「意識」については考え直してみたいと思いました。多謝。




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