見出し画像

莫妄想(余計なことは考えない)

拝啓 奥さんへ

「莫妄想(妄想する莫れ)」は、中国唐代の禅僧の無業和尚の言葉です。
無業和尚は、有名な禅僧の馬祖道一の弟子です。無業は、生涯、誰が尋ねても、ただ、「莫妄想」とだけ答えたと言われています。いわゆる、馬鹿のひとつ覚えですね。

しかし、考えてみれば、これは禅の根本原理です。だから、何にだって応用が利くのです。誰かが何を尋ねても「莫妄想」でいいのです。無業は間違っていません。夫もそう思います。

妄想とは、人間がいくら考えてもわからない問題を考えることです。というより、考える必要のないことを考えることだと言ったほうがよいかもしれません。人間がいくら考えてもわからない問題は、考える必要のない問題といえますから。

例えば、恵心僧都源信の幼年時代のエピソードとして、こんな話が伝わっています。彼はあるとき、近所の大人から「坊やは、お父さんとお母さんと、どちらが好きか?」と尋ねられました。すると、彼はそのとき煎餅を食べていたのですが、その煎餅を二つに割って、「おじさん、この二つの煎餅の、どちらが好きですか?」と問い返しました。実に見事な禅問答ですね。これなどは、明らかに、考える必要のない問題です。「莫妄想」です。

考える必要のない問題はいろいろあります。例えば、列車が遅れているとします。すると、わたしたちは、ついつい「なぜ遅れているのだ?」「いつになったら動き出すのだ?」「目的地に何時に着けるのか?」と考えてしまいます。でも、これは、わたしたちが考える必要のない問題です。これらの問題は運転手をはじめ鉄道関係の人間が考える問題だからです。これも「莫妄想」の問題です。

ヴィトゲンシュタインが1921年に刊行された「論理哲学論考」の序文で、次のように述べています。

およそ語られるうることは明晰に語られうる。
そして論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。

論理哲学論考

ここで述べられてるように、ヴィトゲンシュタインは、語りうること(有意味なこと)と語りえないこと(無意味なこと)との間に境界線を引くことで、人間には何が思考でき、何が思考できないのかを明らかにしようとしました。そしてその目論見は、神の存在や世界の本質、善とは何かなど、哲学が問題としてきたような事柄はことごとく語りえない無意味なものであると示すことにありました。西洋哲学版の「莫妄想」ですね。

「沈黙は金なり(Silence is golden)」という言葉もあります。黙っていることや発言しないことが時に最善であり、価値があるという意味のことわざです。これは、余計なことを言わずに慎重に行動することで、問題を避けたり、他人に対して好印象を与えたりできるという考え方に基づいています。有名な名言ですが、これも一種の「莫妄想」ですね。

安宅和人さんの「ISSUE DRIVEN」も一種の「莫妄想」です。「イシュー」とは、「2つ以上の集団の間で決着のついていない問題」であり「根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題」の両方の条件を満たすものです。

A) a matter that is in dispute between two or more parties
  2つ以上の集団の間で決着のついていない問題
B) a vital or unsettled matter
  根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題

ISSUEの定義「ISSUE DRIVEN」

イシュー度とは、「自分のおかれた局面でこの問題に答えを出す必要性の高さ」ということになります。「これは問題だな」と思っていることのほとんどが、「いま、この局面でケリをつけるべき問題=イシュー」ではありません。本当に価値のある仕事をしたいなら、この「イシュー」を見極めることが最初のステップになります。要するに、余計なことは考えるな、「莫妄想」ですね。

日本では、戦後「安全」が正義のひとつになりました。安全であることが正しい。確かに安全であることは大切です。しかし、安全を優先すると他の価値観(自由や楽しさ)などと衝突を起こします。例えば、十年に一度くらいの安全設計は必要かもしれませんが、百年に一度、千年に一度の災害に備える設計にするのは現実的ではありません。それは過剰な安全設計だと思います。それでは、大地震が来たときにどうすればいいのか?(この問い自体も「莫妄想」ですが)

運が悪ければ、人間、どうしたって死ぬのです。死ぬときは死ねばいい、と覚悟を決めるしかありません。そして、それ以上のことは考えない、要するに「莫妄想」なのです。最後に、江戸時代の曹洞宗の禅僧の良寛禅師の言葉を紹介して終わりたいと思います。多謝。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候

良寛禅師

いいなと思ったら応援しよう!