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コーラン(井筒俊彦訳)を読む
拝啓 奥さんへ
コーラン(Qur'an、クルアーン)は、イスラム教の聖典であり、ムスリム(イスラム教徒)にとって神聖な書物とされています。コーランは、預言者ムハンマドが神(アッラー)から啓示を受けたとされ、その内容はイスラム教徒にとっての信仰と生活の指針を提供します。より正確に言うならば、アッラーの教えを大天使ガブリエルが、マホメットに「アラビア語」で伝えた言葉でまとめたのがコーランです。それゆえ、コーランを読誦するときには、かならずアラビア語でなければなりません。だから、イスラム教では翻訳のコーランを認めません。翻訳は本物とは異なるわけです。今回、夫が読んだコーラン(井筒俊彦訳)は日本語ですから、あくまで翻訳であって本物のコーランではないわけですが、それにも関わらず、そこから学べることが多かったので、ここで記事にしたいと思います。
イスラムがわかれば、世界がわかる
なぜ、コーランを読む必要があるのか?それは、コーランを読むとイスラムがわかり、イスラムがわかると、世界がわかるからです。具体的に説明していきましょう。
まず第一に、イスラム教ほど、宗教らしい宗教はありません。まさに宗教の模範といえるでしょう。宗教の本質を理解しようと思えば、イスラム教ほどもってこいの材料はないのです。そもそも、イスラム教は一神教として先行するユダヤ教、キリスト教の中にある不合理性や欠点を徹底的に研究して生まれた宗教です。その教理は実によく整理されていて、きわめて合理的です。
第二に、イスラムがわかれば、ユダヤ教もキリスト教もわかります。コーランの中には、それらのエッセンスが何度も何度も出てきます。現在日本人が抱える困難の一つは、キリスト教がよくわからないことです。西洋文明の基本であるキリストがわからないければ、「資本主義の精神」も「近代デモクラシーの精神」も表面的な理解に留まります。そのキリスト教を知るには、同じ一神教のイスラム教との比較が大いに役に立ちます。
宗教とは何か?
これについて、宗教社会学の巨人マックス・ウェーバーはこう言っています。宗教とは何か?それは「エトス(Ethos)」である。「エトス」とは日本語に訳せば、行動様式です。つまり、行動のパターンです。行動の中には、意識的なものも、無意識的なものも含まれます。宗教を信じるということは、その宗教独特のエトス、行動パターンを持つことに他なりません。たとえば、ユダヤ教徒は豚肉を食べません。これも「エトス」です。
およそどんな宗教においても、そこには独自の道徳律や戒律があり、それがその宗教を信じる人たちに独自の「エトス」を生み出すわけですが、イスラム教はそれが最も徹底的な形で行っている宗教です。イスラムにおいては、宗教上の戒律は、そのまま社会の規範であり、「国家」の法律です。信者の行動のすべてはイスラム法によって定められています。
二大世界宗教の違い(キリスト教とイスラム教)
2012年12月時点での世界人口におけるキリスト教徒とイスラム教徒の人数は、キリスト教徒が約22億人で31.5%、イスラム教徒が約16億人で23%でした。キリスト教は世界最大の信者数を誇り、多くの国や地域で信仰されています。イスラム教徒は中東に多いイメージがありますが、実際にはムスリム人口の半数以上にあたる約10億人がアジアで暮らしており、世界最大のムスリム人口を持つインドネシアでは人口の9割にあたる約2億2千万人がムスリムです。
同じ一神教で共通点も多い二つの宗教ですが、決定的に違うところ1つあります。それは規範(ノルム)の存在です。規範とは、分かりやすく言ってしまえば、「これをしろ」「あれはするな」という命令(禁止)です。驚くべきことに、キリスト教には、この規範がまったく存在しません。キリスト教は「信仰のみ」の宗教なのです。それに対してイスラム教は規範だらけです。規範なくしては、イスラム教ではありません。なぜ、日本にイスラム教が広まらないか?それは、日本人は規範が大嫌いな民族だからです。規範を守るなんて、面倒くさい。「南無阿弥陀仏」とお念仏を唱えたり、神社でお賽銭を投げてお祈りしたり、「信仰のみ」に徹するほうが好きなのです。
規範は「目に見える行動」だけを対象にする
規範とは、「これをしろ」「あれはするな」という命令(禁止)ですが、この場合、あくまでも人間の外面的行動に限られます。ここが理解のポイントです。なぜ限定されるかといえば、外面面行動でなければ命令を破ったか破らなかったかが測定できないからです。
例えば、「神を信じる」というのは内面的行為で、これは計測することができません。「私は神を信じています」と言っても、その人が本当に神を信じているのか、それとも口先だけで言っているのかは誰にも分かりません。そこで、イスラム教では、宗教的な規範を非常に重んじるのです。
イスラム教の場合で考えると、イスラム信者には、基本的な義務として「六信五行」というものが課かされています。読んで字の如く、6つのことを信じ、5つの行いをなせです。これを守らなければイスラム教を信じたことにはならないのです。
まず、イスラム教徒は、以下の6つを信仰しなければなりません。神や天使の実在を信じ、コーランに代表される教典や預言者マホメットの言葉を信じなければいけません。
神(アッラー)
天使(マラク)
啓典(キターブ)
預言者(ナビー)
来世(アーキラット)
天命(カダル)
さらに、信者は単にアッラーの存在を信じ、コーランの教えを信じているだけではだめで、以下の5つの宗教的義務を同時に果たして、はじめてイスラム教の信者になれます。
信仰告白(シャハダ):アッラーの他に神なし
礼拝(サラート):一日五回メッカに礼拝
喜捨(ザカート):仏教との違いは義務であること
断食(サウム):例外規定あり
巡礼(ハッジ):「連帯」の体験の場がある
神(アッラー)を信じるとは?
慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・
アッラーを信じるとは、具体的にどういうことなのか?
まず、「アッラーの他に神がない」ことから始まって、アッラーは天地創造の絶対神であることを信じる。アッラーは「全知全能」であり、どこにでもおられ(偏在)、天地とその間にあるすべてのものを作り、支配している。スピノザは「神即自然」と言いましたが、日本人の感覚としては自然とか、宇宙とか、原子とかの超越的な概念のほうがイメージしやすいのかもしれません。(イメージすること自体が怒られそうですが)
さらにアッラーには99の美質(創始、慈悲、真実、正義、崇高…)があり、これをすべて信じる必要があります。さて、この99の美質のなかで、最も重要なものは何でしょう?
讃えあれ、アッラー、万世の主、慈悲ふかく慈愛あまねき御神、裁きの日の主催者
上記にあるように、イスラム教の神は、ユダヤ教やキリスト教の神とは、なにかが違います(同じ一神教の神はずなのに!)。けっして怒りに任せて人類を滅亡されたり、あるいは信者を試したりするようなことはしません。その慈悲は海よりも深く、山よりも高い。信者が少々過ちを犯したくらいでは、アッラーの神は怒ったりはしない。改悛の情しだいでは、優しく許してくれます。
同じ一神教なのに、なぜこんなに性格が変わったのでしょう?イスラム教では、この点について次のように述べています。ユダヤ教やキリスト教での信者たちは「神は恐ろしい存在」と考えていますが、それがそもそもの誤解です。なぜなら、もし、神が本当に心の狭い、慈悲心のない存在であったとしたら、今頃ユダヤの民は皆殺しに遭って、地球上に存在していなくても不思議ではないからです。つまり、神はずっと昔から慈悲深くおられたのです。このようにイスラム教は、合理的な解釈・説明をする宗教なのです。
最後に、すべてはインシャラー
コーラン(井筒俊彦訳)を実際に読んでみて、夫が感じたことは「非常に読みづらい、連続して読めない」ということです。コーランは、アッラーの教えを大天使ガブリエルが、マホメットに「アラビア語」で伝えた言葉でまとめたものです。それはキリスト教の聖書のような物語のかたちにまとまっておらず、急に天から啓示が降ってきた感じで言葉が始まるので、「えっ、今のなんだったの!?」とマホメット(預言者)自身もなったようです。
体系知に慣れている現在人からすれば、「結論から、全体から、単純に」言ってくれよと言いたくなりますが、そんなことを言えば、ゲヘナ(地獄)の炎で焼かれます(なぜかコーランでは炎あぶりが多数登場します)コツとしては、1日6ページずつくらい辞書を読むように噛みしめながら読むのが良いと思います。すべて読み終えたからといって、先に述べた「六信五行」を実践しなければイスラム教徒にはなれませんので、安心してください(笑)
最後に、すべてはアッラーの思し召しについて。イスラム教の世界においては、ありとあらゆる約束はタテの契約によって成立します。例えば、商売においても、神と契約を結ぶのです。(ヨコの契約(人と人)ではない)
イスラムでは、現世に起こることはすべて「天命」であるとします。アッラーがすべてを決めているというわけです。(宿命的予定説)
例えば、不測の事態が起こったり、何かのミスが起きて、契約を守れない状況が発生したとします。ヨコの契約になれた日本人なら、なんとしてでもトラブルを乗り越えて契約を履行しようとします。しかし、タテの契約になればイスラム教徒はそうは思いません。反射的に「これはアッラーの思し召しによるものと考えます」つまり、宿命です。アラビア語で「インシャラー」と言います。すべてはインシャラーなのです。
何かを約束する。その約束は必ず守る。けれども、いつ、その契約を履行するかは、当然、努力はするけれども、インシャラーなのである。
日本人は、人事を尽くせば、天命が変わるかのように思っていますが、天命なり神の意思といったものは、まったく人事と無関係のものです。努力しようがしまいが、天命・神の意思は変わらない。そして、そのよう天命・神の意思にすべてをゆだねるというのは、宗教の本質だと思います。
以上、まとめると、イスラムを学ぶには、コーランを読むのが一番。コーランを読めば、宗教の本質がわかります。宗教の本質がわかれば、比較して、キリスト教やユダヤ教や仏教もわかります。キリスト教がわかれば「資本主義の精神」や「近代デモクラシーの精神」もわかり、世界が見えてきます。多謝。