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「プロテスタンティズムと資本主義の精神」を読む

拝啓 奥さんへ

プロテスタンティズムと資本主義の精神」は、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(Max Weber)が1905年に発表した著作で、近代資本主義の発展における宗教的要因を探ったものです。注釈が多く、読むのに苦労しましたが、学ぶべきことも多かったのでこちらで紹介したいと思います。

プロテスタンティズムの特徴(聖書の教えだけがすべて)

最初に宗教改革から話を始めます。宗教改革とは、要するに「原点回帰」の運動でした。堕落したキリスト教を初期の姿に戻すのがルターの狙いであり、カルヴァンの悲願でした。プロテスタントにとっては、聖書の教えだけがすべて、ことにカルヴァン派では利子禁止は徹底していました。ところが、プロテスタンティズムこそ近代資本主義を生み出す触媒となったのです。とくに聖書に厳正なカルヴァン派の存在は大きかった。なんという矛盾!という気がします。ウェーバーはさまざまな例を挙げつつ、カルヴァン派が資本主義の先兵になったありさまをつぶさに示しています。そして、矛盾のごとく見えながら矛盾ではないことを証明しました。

予定説が「エトスの変換」を引き起こしました

徹底的に商業を排撃し、経済活動を否定したはずのプロテスタンティズムがなぜ、資本主義発生の「触媒」となったのでしょう?そこで重要になるのが「予定説」です。予定説とは、「その人が救済される否かは、すべて神によってすでに決定されている」という思想です。この予定説を徹底的に信者に叩き込んだのがカルヴァンです。

このような教えを聞いたとき、熱心な信者はどのように感じるでしょうか?
強烈な焦燥感です。はたして自分は救われているのだろうか、救われていないのだろうか、そのことが頭から離れなくなります。もちろん、その答えは最後の審判までわかりません。でも、来世のことが気になってしようがない。熱心なプロテスタントになればなるほど、救いを求めて聖書にすがりつきます。イエスの教えに従った生活をしようと考えます。

そうして聖書の教えに忠実であるカルヴァン派の人々は、生活のありとあらゆる行動を徹底的に厳しく律するようになりました。その思いつめた生活こそが、彼らのエトス(行動様式)を変換することなります。このエトス変換によって、中世ヨーロッパに君臨していた伝統主義(永遠なる昨日的なもの)の重圧は押しのけられました。

労働こそが救済である

この伝統主義の破壊に拍車をかけたのが、カトリック修道院の中にあった「行動的禁欲」の世俗化です。「行動的禁欲」とは「行動するため」に他のことを断念する禁欲です。日本人が禁欲と聞いて連想するのは、断食などのような「何かをしない禁欲」ですが、キリスト教の禁欲とは、それとは正反対です。
信仰のためには、一秒、一瞬、一刹那たりとも懈怠せず行動すべし!」
これこそが、行動的禁欲です。
この行動的禁欲の精神は、「祈りかつ働け」というスローガンのもと、カトリック修道院の中では行われていたのですが、それがプロテスタンティズムによって世俗の信者に開放されたのです。

さらに加えて、禁欲的プロテスタンティズムでは、世俗の仕事こそが神から与えられた使命であるという思想が強調されました。これをルターが「天職(Beruf)」と呼び、カルヴァンはこの天職思想の中に、行動的禁欲を押し込めました。かくして、宗教改革以後のクリスチャンの間には「行動的禁欲によって天職を遂行すれば、救済される」という思想、つまり、「労働こそが救済である」という思想が確立しました。

かくて利潤は正当化されました(資本主義の精神)

予定説がもたらしたエトスの変換。その表れの一つが、利潤追求の徹底です。利潤追求を否定するはずのキリスト教から、なぜ利潤追求の徹底が起こるのか。そのコペルニクス的転回について考えていきましょう。

そもそも、イエスは「神を愛し、隣人を愛せよ」と説き、これをキリスト教の第一の教義としました。商売をして、そこで利潤を得てはいけないというのも、ここに由来します。利潤を得ること(単なる貪欲)は、隣人の富を貪ることに他ならないからです。

プロテスタンティズム、いえ本来のキリスト教では外面的な行動の結果よりも、内面的な動機を決定的に重視します。なぜ、プロテスタンティズムでは金儲けを禁止したのか。キリスト教の教えで「金儲けは悪い」という場合、カネが儲かったこと自体が悪いと言っているわけではありません。その動機としての貪欲が悪いと言っているのです。

このことがキリスト教の究極的視座であり、ここに、イエスが説き、パウロが念を押したキリスト教の特徴があります。キリスト教であるためには、内面(心の中における信仰)だけで良い。「信仰あるのみ(ルター)」なのです。外面における行動は究極的にはどうでもいいのです。したがって、プロテスタンティズムが徹底し、エトスの変換が起きると、ヨーロッパでは利潤の追求が熱心にされるようになりました。

なぜでしょう。資本主義の担い手になった「中産的生産者層」の人々は、以下のように考えました。

隣人たちが本当に必要としている、あるいは、手に入れたく思っているような財貨、それを生産して市場に出す。しかも、あの掛け値を言ったり値切ったりして儲ける、そういうやり方ではなく、「1ペニーのものと1ペニーのものとの交換」、つまり正常価格で供給する、というやり方で市場に出す。そして、適正な利潤を手に入れる。これは貪欲の罪どころではなくて、倫理的に善い行いではないか。いや、端的に、神の聖意にかなう隣人愛の実践ではないか。そう問いつつ、彼らはさらにこう考えたのです。もし、自分たちが生産している財貨が、本当に隣人たちが必要とし、手に入れたく思っているものであるならば、それは必ずでどんどん売れるに違いない。そうすると、当然そこに利潤が生まれてくる。そうだとすると、その利潤は、商人たちの獲得する投機的な暴利や高利貸などとはまるで違って、むしろ隣人愛を実践したことの表われということになるのではないか。

大塚久雄「社会科学における人間」岩波新書

ここにおいて、キリスト教は商業や利潤を徹底的にに排撃する宗教から180度転換し、近代資本主義を擁護し、利潤追求を奨励する思想となりました。「資本主義の精神」が発生したのです。

以上がマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムと資本主義の精神」の中で説いたことの要約になります。もし、興味を持たれたなら原文にあたってみてください。注釈で挫折しがちなので、読むときは解説から入り、本文をさらっと流し読みした後、注釈を読み見識を深め、もう一度本文に戻るのが良いと思います。多謝。

追伸
本文は、小室直樹先生の「日本人のためのイスラム教原論」を元に作成しました。イスラム教とキリスト教を比較することで、「プロテスタンティズムと資本主義の精神」を理解するための助けとなります。ぜひ、そちらも読んでいただければと思います。


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