児童"文学"じゃなくてなぜ児童"文"なのか:おはなしを書くこと3
タイトルで「あ、児童文学の話か。じゃあ、小説とかライトノベルとかポルノは関係ないね」と思われたかたは残念。じつは関係するのです。
こんにちは、くぼひできです。売れてない作家をやっています。ジャンルは児童文です。児童文学というほうが一般的です。noteでは大人向けの話も載せました。
創作論の3つめ。
わたしは名刺にも「児童文作家」としてあるんですが、なぜ「児童文学」じゃなくて「児童文」と、学がないことをしているのか。
と、わたしの肩書自体はどうでもよくて、じつはスタンスについての話なのです。
純文学でもエンタテインメントでも、評論でもエッセイでもなんでもいいんですけど、この「~~文」というのを無意識でも体得している人の文章って、とっても心地よいのです。
文というのは、ブンと音読みし、ふみと訓読みします。ほかにも「あや」という読みがあるんですが、ひとつの文字にそれらがすべて託されているんですよね。
あや、とは、彩であり綾でもある。色彩のことでもあり、織り模様のことでもあるんですね。つまり言葉でもって彩り、言葉でもって織りあげる。その意味がこめられている。
ふみ、というのは、歴史の史とも重なるのですけど、しるし、のこすことをさします。古事記も「ふることふみ」という読み方が正しいし、手紙のこともふみといいますよね。
ダジャレとか牽強付会ではなく、この心持ちを、実は自分の書く文章について持っている方がいい。と、そういう話を今回したいのです。
~~文、という熟語でパッと出てくるのが旅行の記事などの「紀行文」。物事を論じる「論文」「評論文」。反省をしたためる「反省文」。本や映画などの感想を書く「感想文」。あとは教科の「現代文」「古文」「漢文」「英文」といったところでしょうか。
おおむね、内容または形式です。教科などは形式ですね。でも反省文や感想文、論文は内容です。
あたりまえのことなんですけど、反省したことが相手につたわらないと反省文にはならないし、感想がつたわらないと感想文ではない。
だいじなのは「つたわる」という部分なのです。
反省や感想が伝わらなければ、相手はOKしてくれないわけです。だからしっかり書かねばならない。論文でも同じです。論になってなければ、つまりただの感想や単純な意見だと論とはみなされないのです。
紀行文を例に取ります。紀行文においてはなにがつたわらなければならないか。情報であれば「どこに」「どれくらいの時間をかけて」「いくらくらいで」行けて、名所など「なにがあって」「なにが有名か」などというのを書くわけです。
ではそれだけを書けば紀行文になるかというとなりません。これだけだとパフレットの紹介文とか(まさに紹介はできてる!)、旅行雑誌の短文です。
紀行文でつたわらなければならないのは、旅行した人の(通常は著者の)気持ちです。
旅行してどう楽しかったのか、なにに驚いたのか、どのようにおいしかったのか。紹介文以上に、心や気分の状態、景色の美しさといったものを存分に書くことで、紀行をあらわすことができる。
と、そう考えることができるのです。旅の情趣を描いて、読み手が紀行を体験しているかのように書く。それではじめて紀行文になるわけです。
ここから本題。
~~文というものは、その~~という部分にあてはまる言葉がそのジャンルの強みになる(ちなみに文学というのは、その~~文を研究し学問にしているから文学だということですね)。
大衆文学は、大衆文と読み替えることで、その文章が高踏(高等の誤字ではありません)なものではなく大衆の心理に根づいたものであり、だからその大衆性を味わえるものです。
恋愛文は、その文章が恋愛を体験させてくれる(もちろん仮想体験、追体験ですよ)。
これらは実は~~文という形をとってなくてもいいんですよね。
SFは、むかしはSF文学という呼称した紹介本とかありましたが、ふつうはSFと単純に呼び習わしますね。昔からよく言われているのは、SFにとって大事なのはセンス・オブ・ワンダーであるということです(80年代くらいまではこの論議で通じてました。現在はさらに浸透しているし拡散しているようです)。センス・オブ・ワンダーを感じさせることができなければ、SFではないと言いかえられます。
ではライトノベルはどうなのか。ホラーやファンタジーは? 怪談は? ポルノは? 時代小説、推理小説など末尾に小説がつくものは?
それらにももちろんあるのです。ファンはその何ものかを感じなければジャンルとしてのおもしろさを感じ取ってくれません(もちろん、ほかのおもしろさを感じ取ってしまうことはありますので、まったくつまらないとはなりません)。
重なり合うものはその重なり合いが大事ですよね。ライトノベルでファンタジー、児童文学で怪談、時代小説で推理小説。どちらも意識しなくてはいけません。
その意識するものはジャンルによって異なりますが、なにか良い呼び方はないでしょうか。じつはあります。
むかしアマチュアだった頃に、時海結以さんと『往復書簡「ライトノベルと児童文学のあわい」』というやりとりを久美沙織さんのご観覧のもと行いましたが、あそこではそれを「勘所:かんどころ」と言いました。どのジャンルにも勘所があり、それを外すと「ちがうんだよなあ」と思われてしまう。
もちろん、既成の勘所ばかりを狙ってたんでは作品は古くさいものでしかありません。かといって、まったく違うベクトルで外してしまうとジャンルとしては書けてないとなりかねない。そのあたりをうまく調節しなくてはいけません。
わたしについていえばジャンルは児童文。
児童文は、その文章のなかに児童が生きていること、と考えています。大人の感想が地の文にダダ漏れしているのではなく、たとえば大人の言葉(セリフ)や態度に触れて子どもがどう考えるのかが中心となって描かれている。子どもの価値観と大人の価値観にはズレがあります。そのときどちらの価値観に寄り添うかといえば、子どものほう。そこに児童文の意味があります。
児童文学は、児童向け(YA含む)の作品や、大人向けの作品のなかから、児童文になっているものを見つけ出し、ターゲットとする研究・学問といえます。だからこそ「これは子ども向けなのか」ということが、常に新作とともに議論になるし、それらを超越して出てくる作品が子どもたちに広がっていくのですね。
これから書こうとしている人は、まずがむしゃらに自分の作品を書くのだと思います。それが「~~文」であるかどうかは、実は書いたあとでしかわかりません。
わたしの教室だけではなくいろんな児童文学・童話系の創作教室で起こることですが、子ども向けに書こう書こうとしてもどうしても大人向けになってしまう。そういう人は多々います。そして自分には書けないのだとあきらめてしまう。
ちがうのです。自分の文章が「~~文」なのかは、いくつもいくつも習作を書いてみなくてはわからないのです。逆に言うと、毛嫌いせずにいろんなジャンルを書いてみるべきなのです。
いやどうしても目指すジャンルがあるのだ、というのであれば、自分の文章から感じ取れるものが、自分の好きな作品たちと同じかそれ以上になるように感性と技術をつけなくてはなりません。
と、こういうことを書くと、すごい書き手の人たちに「自分はそんなこと考えたこともないなあ」とか言われちゃうんです。そういう人は天才なんです。天才はいいんです。あの人達は最初からすらすら書ける。
たくさん書いて自分の得意な勘所、つまりジャンルを見つけるか、自分の好きなジャンルで書いていけるようにたくさん書いて修練するか。
このへん、少し心においといてもらうといいかなと思います。
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