今月の読んでよかった:「加害者はかわれるか?」(信田さよ子・著)・続編
こんにちは。モラハラを手放すと決めて76日目の久保だいすけです。
前回の記事にも書いた、最近GADHAの課題図書として読んだ信田さよ子さんの著書「加害者は変われるか?」について、まだ触れていない自分の中での大きな発見があるので、もう少し書いてみます。
加害者の被害者意識と被害者の加害者意識
著書の中では、著者がこれまでカウンセリングを行ってきた様々な経験から、一定の共通点を見出されているところがいくつかありました。
その一つが、実は被害者は加害者意識に溢れていることでした。よく聞く、「私があの人(夫)にそうさせたのであって、彼は悪くない」という類の考えです。つまり、被害者である自分が暴力を振るわせたのであって、それが何十年と続く関係であっても、洗脳されているように加害者意識を持ってしまっている傾向があるそうです。
ただ裏を返してみれば、これは加害している側の主張がたびたび繰り返されていることによるものだということが浮かびあがってきます。
なぜなら被害者が上記のような言葉を並べる一方で、加害者(夫)は自分の暴力には理由があり、その理由・原因は妻にあるということです。
・妻が生意気な口答えをしたから
・妻がわかっていることを何度も繰り返し言うから
・妻のやり方がなっていないから
・妻の振る舞いが常識はずれだから
だから暴力(加害)は不可避であるというのが加害者・夫の言い分です。ぼくは物理的な暴力は振るっていませんが、ぼくの加害行為も多分に上記のような理由により、妻のせいにしていました。
これの何が問題かというと、暴力行為に至るまでの動機と行為が一体化されていることだと著者は言います。(P132)
つまり暴力行為のトリガー(動機)になる言動・行動があったとしても、っ実際の暴力行為という行動をとるにあたって明確な選択・判断が加害者にはあり、動機と行動は別物であってしかるべきだからです。
その証拠に、ぼくも妻の言動で何か気に入らないことがあったら、それを不機嫌という形で撒き散らして加害に及びますし、大勢の前で笑いのネタにするという侮辱という加害を犯してきました。でも、それが上司に対してはしません。
このようにどれほど妻の行動に対して不満があったとしても、それを言葉にして穏やかに伝えたり、そもそも攻撃として捉えないことは可能なはずです。加害は自分の選択によって行われているもので、ぼくはそれを自らの意思によって行っているということでした。
加害者・自分として今一つ納得感が最初なかったのですが、これを加害者・母と被害者・ぼくに置き換えてみるとよくわかりました。
そしてそこには明確な権力関係があったのです。
母からぼく、
ぼくから妻
には、それぞれ左の者から右の者に対して、状況の定義権が強引に預けられています。左の者(加害者)はそれを振りかざして、自分の行動を正当化し、右の者(被害者)を支配していました。被害者は、意に背くことがないように行動しながらも、加害者の意向は気分次第で変わることもしばしあり、常に被害者を緊張状態に追い込み、被害者は疲弊、翻弄され続けるのでした。
妻には妻の視点がある
かなり抽象的ですが、上記のような夫婦関係の場合においても、加害者・夫の言い分があるように、妻には妻の視点が必ずあります。
いつも自分の考えが正しいと思っている夫に対し、面倒なのではいはいと受け流し、それでも気に食わないと私が悪かったと終わらせようとする妻。妻は話が伝わらない相手が面倒なだけなのに、夫はやっぱり妻は間違っていた!と繰り返す。
相手のニーズが何か、相手がどう感じているか、相手がどのような信念に基づいてその行動・言動をとっているか。その背景とロジックを理解もせずに、常に自分のアルゴリズムを当てはめているだけでは全く何も理解していないし共有・共感できていない。そんな先日の2回目のGADHAのプログラムセッションでの気づきと全く同じメッセージだった気がします。
その瞳の奥にいる母は、そこには、、、
読めば読むほど、著者が書く加害者性と被害者性は、それぞれが同居しているだけに混乱するぐらい響くものでした。そして加害者性だけでなく、被害者性を扱うことで、ぼくは自分の行動の裏付けが自らの母から育てられた経験にあることに気づき、怒りというよりも果てしない解くことのできない紐で縛られている気持ちが芽生えてきていることに気づきました。
なぜぼくはそう(加害)してしまうのだろう?と思っても、それが親からの加害を想起させ、被害者としての自分がその苦痛を味わうことで、自らの加害自覚につながる。そんなサイクルが目の前で、頭の中で、ぐるぐると回り続ける300ページの旅でした。
ちょうどGADHAで有名な「被害者からの手紙を書く」という課題と読んでいるタイミングが重なり、本当の意味で初めて妻がどう感じるかについて真剣に考えた時でした。今まで、自分の主張を繰り広げ受け入れられることしか頭になかったような気がします。それがどれだけバカらしく、無意味なことと知っていながらも、著書とプログラムが重なって、初めて明確に自分で気づき・腹落ちしました。
飛躍しすぎかも知れませんが、著書に書かれた世間一般な男性像がぼくそのものな気がしてきました。
ぼくは妻には無条件に受け入れてくれる聖母を投影していることに気づきました。母に理解してほしい、認めてほしい、受容してほしい、と願いつつも、それが叶わない。今となっては逆にそうされても気持ち悪く、自分が受け取れない。そんな思いから、そんな母の役割を妻に求めてしまっていました。
だからこそ、みっともない、カッコ悪い、頼りない、落ちこぼれで不出来な自分が出てくると、その印象を和らげようと妻のせいにしたり、極端に甘えて受け入れてくれることを求めたりしてきました。
また世間一般のカッコイイとされ、女性ウケの良い、プレゼントや褒める、愛を言葉で伝えるなどの行動を取ることで、妻からの気を引いたり、満足度向上を狙っていました。
ただ同時に、その行動が狙った効果を生まないと、焦りとどうすれば良いかわからない混乱から、不機嫌になることで違う形で相手の気を引くという全く逆効果の行動に出てもいました。
安全地帯がない →
この人は安全かも? →
仲良くなる →
愛をもらえなかった母を投影 →
安心と同時に安全故に失う恐れ増す →
弱み見せない、隠す、揉み消す →
相手が離れるの怖い →
独占欲が増す →
境界性が失われる →
支配性が増す →
少しでも離れる →
自信ないから凡ゆる手でそばに置いておこうとする →
相手苦しく辛い →
安全地帯を失う
こんなサイクルが自分の中で浮かびあがってきました。これは全ての行動・言動の源でもあり、もはや自分の信念に近い部分な気がします。
典型的なモラハラ思想:自分の欲求を満たす道具
ぼくは妻に、自分が得られなかった理想で、求め続けてきた無条件で受け入れてくれる母を投影してい流ことに気づきました。
一番衝動や本能に近い行動に出る、睡眠・食欲・性欲といった3大欲求において最も顕著で、睡眠は一時的に離れてしまうことが怖く、無駄に起きていることで寂しさを誤魔化そうとします。食欲もうまく制御できず、ニーズを見たそうと欲するままに食べたり飲んだりしたと思ったら、極端に制限したりを繰り返してきました。性欲については詳細は省略しますが、無条件に受け入れ、自分を認めてくれる、そんな存在・役割を求めていることに気づきました。過去に遡ってみてみると、その場その場を盛り上げるための手段として笑いを取るための道具など、それは究極的な自分の安心感を得るための道具として見ていたことに気づきました。
これの恐ろしいところは2つ。
他者性の不在
典型的なモラハラ思想
という点です。
痴漢や暴漢など性犯罪者の多くが、他者からの自分に対する視点・視線を遮断し、対象を「からだ」や具体的な体の部位で呼び、人として認識していない発言をするそうです。その女性が、妻や娘と同じ女性ではなく、ましてや同じ人間とも思っていない、そんな話をするそうです。(P208-209)
この点にぼくはとてつもない恐怖を覚えました。妻も娘もいる身からすると、ぼくは今の思想の延長線を辿っていってしまえば、そこには彼女らと同じ女性を「からだ」や「性器」といった言葉でしか認識せず、性犯罪という究極的な人としての主権を犯してしまう行為にはしってしまうと思うと怖くて震えが止まらない感覚を覚えました。
もしかしてぼくは女性を見るたびに、この人は母の代わりになるか、ぼくを無条件で受け入れてくれるか?この人に受け入れてもらいたい、などといった視点で見ているのか。そんなことが心配でなりません。
DV加害者の自己認識と責任受容
著書の題名である「加害者は変われるか?」の問いに対する答えは、筆者からは明示されず、代わりに著書を繰り返し読む中で、いろいろな気づきを得ることで、自分の加害者としての自己認識が促されます。
また著書には色濃く被害者の思考が描写されており、加害者としてどのような影響を被害者へ与えているかを知ることで、加害者としての責任の解像度も上がってきます。
結局これらなくして加害者は変われないし、逆に言えばこれがあったとしても加害者が変われるかは本当にその人次第な気がします。
この読書経験を持って、加害者がかわれるか?そして加害者が変わる、とは?という問いについては今後もう少し掘り下げてみようと思います。
妻ちゃん、また大切なことを教えてくれてありがとう。
文中引用・出典
信田さよ子、加害者は変われるか?: DVと虐待をみつめながら(ちくま文庫)、2015年