10/4(金):カウンセリングの振り返り
こんばんは。モラハラを手放すと決めて52日目の久保だいすけです。
今朝は2週間ぶりのカウンセリングでした。
色々発見が今回もありながらも、それらは頭の中の整理に近かかったです。これがもしかするとカウンセリングの限界なのかな?と思うこともあるのですが、しっかり振り返ってみます。
カウンセリング・セッションの導入
毎回カウンセリングは、「前回からどうですか?」から始まります。これはこれで毎回前回セッションにひきづられず、その時々に話したいことが話せる意味では良いのですが、今みたいに明確に加害的思考の変容というテーマがある時には、脱線してしまいがちになるというデメリットもあります。
実は前回のセッションの終わりに、かなり明確に次からはこうしよう!と決められていたのですが、その「これ」というのがなんだったのかが思い出せない中でのカウンセリングでした。素直に聞けば良いのですが、それができませんでした。それがいちばんの反省です。
話す中で言語化が進むのがカウンセリング
代わりに今回は、大きく3つの視点で話しました。
生活リズムの変化(出張や家族の看病)により、習慣が変わると思考が変わる
母の支配からインストールされた価値観と情動性
言語化が進むと、違和感も見えてくる
これらについて話していく中で、かなり自分の中での言語化が進んできました。
1. 習慣が変わると、思考も変わる
これは先日も少し書きましたが、海外出張や帰国後に娘の看病があった時期は、仕事の忙しさも相まって、note記事を書くことから離れてしまっていました。
すると、次第にせっかく理解が深まり、謙虚に自分の変化を捉えていたのが、ここまで変化ができてきた!という錯覚を起こし、変な自信みたいなものが芽生えてしまっていました。
幸い何も行動に現れなかったと思うのですが、明らかに「何を持ってしたら変われたと言えるのだろう?」という思考から、「ここまで理解が進んだのだから、変われ始めているのでは?」と根拠のない変化の実感を感じるようになっていました。
これは振り返ってみると、全く何も根本的には変わっていない状況で、極めて危険だったのではと思います。というのも、根本的には加害行為の裏にある価値観だったりは、確かに「自分は自分しかコントロールできな」と分かっていながらも、「ぼくは変われ始めている!」と信じてしまうと、そこで改善の勢いが緩まってしまい、変化が止まってしまうからです。また加害行為の裏にある価値観や思考回路に大きな変化がなければ、結局そのような思考回路から出力されるものはこれまで通り加害行為しかありません。
先週から無理にでも、もう一回note記事を書き始めることで、これを止めたいという意図があります。そしてもう一度、内省を習慣的に行うことで、自分の思考回路を組み直していく材料を集めながら、新しい思考回路を構築していきたいと思っています。
2. 母の支配からインストールされた価値観と情動性
昨日、母から受けた加害行為の中で、「あなたのためにやったのだから、〇〇しなさい」や「してもらっているのだから、感謝しなさい」という言動が如何に支配的で母は自らも加害的な暗示をかけていたのかについて書きました。
この視点に関連して思ったのが、如何にそういった加害行為をぼくが恐れていたかです。朝起きたとき、帰宅した時など母と再び顔を合わせる時は、常に顔色をうかがっていました。
そのせいか、今でもぼくはよく周りの顔色を伺います。一つ何か行動に移す時には、まわりはどう反応するかをすごく考えてしまう癖があります。支配や加害行為により、ぼくの自尊心や自己肯定感を奪った結果、ぼくはとても人の顔色を伺うようになりました。
同時に数少ない、母から解放される時には、ぼくは楽しいことをして苦しいことを忘れたいと、とても自分が好き・楽しい・心が踊るといったことに対して情動的に取り組むようになったのだと気づきました。
それは楽しいか、好きか。もちろん先天的な習性もあると思いますが、この二つの問いにYESと答えられるものに積極的に取り組む傾向があるのは、数少ない母から逃れられた機会を最大限に、自分の情動性を持って行動することで心の均衡を保っていたのかな、と想像しています。そしてそれが今でも癖として残っているのだと。
3. 言語化が進むと、違和感も見えてくる
実は、今日のカウンセリングの中で、妻に対してだけ、なぜか母がぼくにしていたような「あなたのためにやったのだから、〇〇しなさい」や「してもらっているのだから、感謝しなさい」と似た行動をとっていることに気づきました。
外面よく振る舞い、こんなに良い夫なのだから、もっと労ってほしい。
こんなに美味しい夕飯を作ったのだから、もっと褒めてほしい、感謝を示してほしい。
すごく一々妻の反応に対して期待値が大きい気がします。そして期待が大きいだけに、期待に沿った反応が返ってこないと、ぼくは蔑ろにされているとか、攻撃されていると勘違いするのです。
これが他の人なら、放っておけるのに、なぜか妻にだけは上記のような行動をとってしまいます。それは依存しているとか、甘えていると言われてしまえばそれまでですし、妻がぼくに以前言っていたようにぼくは妻を見下しているのでしょうか。
答えはわかりません。
ただ、なぜか妻にはこう言う態度をとってしまう。
ここ最近でこそ、妻はそんな攻撃をする人ではないし、感謝も示してくれる素晴らしい人だと言うことを理解しました。ただ、どこか時間が経てば、再びぼくは被害妄想的な思考に戻ってしまうのでは、と言うことを恐れています。
いま唯一自分の中で整理できている考え方としては、
入力(=ぼくの行動)に対する出力(=妻の行動)につき、過度な期待をしているような気がします。つまり、ぼくは自分の行動により、妻の行動を変えられると思っているのです。
それはつまり、ぼくは妻を操れる。妻から見ると、見下している存在だからそんなことが思えるのかも知れません。
まとめ
いずれにせよぼくの一番の勘違いは、自分が他人をもコントロールできると思っていることです。母はぼくをコントロールしてきました。だからぼくも他人をコントロールできると思い込んでいるのかも知れません。
でも連日書いているように、自分は自分しかコントロールできません。
他人もまたその人自身しかコントロールできない。
だから自分をコントロールして、自分が最良の状態に持っていく。
それがセルフケアでもあり、マインドフルな思考でもあり、非加害的な思考なのかも知れないと思うようになってきました。
ちょっと今回のカウンセリングは不完全燃焼というのが本音です。冒頭にも書きましたが、自分自身がやはり加害者変容に取り組みたいと思っている中で、そのテーマに沿ってカウンセリングが受けれるように、自分自身でも振り返りやおさらい、さらに前回の続きがしたい、と明確に言い出せるようになりたいです。
妻ちゃん、今日もありがとう。おやすみなさい。