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きょうだい児8歳の夏(預けられた2つの家での孤独)その5
時を戻す。
晴信の手術の日が、近づいてきた。私は、今度は母の兄、つまり伯父の家に預けられることになった。
伯父は、次男だったけれど。最初同居していた長男の家からお嫁さんに追い出された祖父母が一緒に住んでいた。そうなったのは、3,4年前のこと。伯母は、それだけでも大変だったと思うけれど、それでも私を受け入れてくれた。
とても感謝しているけれど、親戚と言えどやはり自分の家族ではないので、居場所がないのは同じ。
初日、私の寝る場所のことで一悶着あった。
「稀沙ちゃん、どの部屋で寝る? 伯母ちゃんたちと一緒の部屋がいいよねー」
と伯母。
「いや、稀沙はこっちで、寝るんだよな。まぁ、稀沙」
祖父が対抗してきた。驚く私。
実は、私は祖父が大の苦手だった。いつも一升瓶を傍らに置いて、昼間から酒を飲んでいる。その当時80歳をゆうに超えていた明治生まれの頑固者、というイメージだったし、何よりも顔が怖かった。
内心私は、そんなことはどうでも良かった。どこで寝ようと私の心の穴はぽっかりと開いたまま、ひとりぼっちの気持ちは消えてはいかないのだから。
消去法で、伯母の方を選んだ私。喜ぶ伯母。
私は、祖父と同じ部屋になんか怖くて眠れない、と思ったものだ。
けれど。
それから数年後のできごとによって、実は祖父だけが私の味方であったことが判明する。その時は、よけいに嫌い、もとい大嫌いになってしまったけれど、今では涙ぐんでしまうほどありがたい言葉だった。
8歳の夏から何年か経ち、伯父宅を訪問して、皆でお茶を飲んでいた。
突如祖父が、
「稀沙は本当に苦労したな。本当に大変だった、稀沙は」
と言い出した。
その時も、祖父の横には一升瓶。酔っぱらっていたのかもしれない。
その言葉を聞いた私は、号泣しそうになった。自分ではまだ毒親育ちとも虐待されているとも全く思ってはいない時期。それでも、祖父の言葉は胸に鋭く刺さった。
晴信の手術のことだけではない。祖父が言っているのは、まだ専業主婦が大半を占めている時代に、母が家にいないことも憐れんでいるのだ。
今思えばここで泣いてしまえたなら、何かその後の人生は変化していたかもしれない。
けれども、それを認めてしまったら母がかわいそうとでも思ったのか、渾身の力をこめて泣くのをこらえた。
ものすごく努力をして耐えたために、またまた喉がぎゅーっと痛くなって大変な思いをした。そして心の中で、
「そんなこと言うおじいちゃん、大嫌い!」
と思っていた。
私に鋭い喉の痛みをもたらした祖父を、逆恨みしたのだ。
今生きていたら、謝りたい。こんな言葉をかけてくれたのは、後にも先にも祖父だけ。嫌ったりして、申し訳なかった。
その時、母と伯母は同じテーブルについていた。泣きそうな気持をそらそうとでも思ったのか、私は2人のリアクションを観察していた。
無言。
何も、言わなかった。
これには、失望した。誰か、何か言ってくれよ。沈黙が続く分、私のみじめな気持ちはつのり、いたたまれない気分になっていった。
伯母は、母に遠慮して言葉を紡がなかったのかもしれない。
母は。
おそらく、
「そんなことない」
と思ったけれど、当時の家長制度の名残から、祖父にたてつくことができなかったか、私がそんな思いをしていることに全く気づかなかったか、まぁどちらにせよ、私の側にはいなかったことだけは、確か。
祖父に向かって母が言えなかったことを、想像してみる。
「そんなことはない。私はちゃんと良い保育ママを見つけてやって、寂しい思いなんてさせていない」
「そんなこと言ったって、晴信の手術のことがあり、稀沙のことなんかかまってやる暇なんかありゃしなかった」
母がしそうな言い訳が、次から次へと私の頭に浮かんでは消える。
どちらにしても。
その日、母が無反応だったことで、私がまた深い傷を負ったことなど知る由もない。
私は私で、
「あれ・・・かばってくれないんだ、こんな時でも」
という落胆をまるで焼印のように心にじゅわっと焼きつけ、トラウマをまた一つ抱えてしまう一日となった。